大漁、異漁。耀

タイトルは タトゥーのようなもの

「どんな大金よりも、私はお母さんの写真が欲しい」  ラフカディオ・ハーン

怪談四代記 八雲のいたずら (講談社文庫)

〈大学で民俗学を専攻した理由は、旅を続けたいからだった。放浪癖があった私は、小学校高学年の頃にはひとりで時刻表を片手に週末ごとに関東地方の史蹟や伝統的な町並みを訪ね、あるいは山歩きを楽しんだりして至福の時を見出していた。中学生時代には山梨県や長野県、東北各地にも足をのばした。(……)中学生が一人旅をするのは、傍から見ると不思議な光景なのだろうが、自分にとっては旅は食欲に匹敵する生理的欲求に近いものだった〉

小泉凡『怪談四代記 八雲のいたずら』。

思えば、ハーンも旅の人生だった。1850年ギリシャで生まれ、アイルランドとイギリス、フランスで教育を受け、19歳の時に単身ニューヨークへ渡った。シンシナティニューオーリンズで約13年をジャーナリストとして過ごした後、カリブ海のフランス領マルティニーク島でも2年間生活した。ニューヨークに戻り、今度は大陸横断鉄道でカナダのバンクーバーへ、そして太平洋を渡って横浜に来た。39歳の時だった。アメリカの出版社との契約を解消して、島根県松江で英語教師となり、さらに熊本・神戸・東京へと移り住み、54歳で生涯を終えた。私と違うのは、旅といっても片道切符の旅で、二度と後戻りをしなかったことだ。人生そのものが一筆書きの旅だった。

ハーンは「幽霊」というエッセーで、「生まれ故郷から漂泊の旅に出ることのない人は、一生おそらくゴーストがどういうものか知らずに過ごすかもしれない。しかし漂泊の旅は人は十分それを知り尽くしている」と語っている。漂泊の衝動こそ「ゴースト」を導くと考えていた。曾祖父はゴーストに出会うために旅を続けたのかもしれない。

アイルランドでハーンは父母の愛情を受けられないままに孤独な日々を過ごした後、19歳の時に親戚が投資で失敗したことから一文無しになって渡米した。

ラフカディオ・ハーン小泉八雲)の生い立ちに孤独なものがある。そのためにあちこちの土地でマジカルなもの、マジカルな描写に耐えるものに惹かれたのだとおもうと愛しい。小泉八雲といえば『怪談』と、一行知識で終わらせていた。たとえばハーンとマルティニーク

〈ハーンも聞き書きしたレシピ集をだすほどクレオール料理には関心があった。街を彩る、オレンジとレモン色の陽光、ジャズ胎動期のクレオール音楽、幽霊のように地面から這い上がる神秘的ともいえる異常な湿気、奴隷たちの怨念譚を伝える幽霊屋敷、こういったことをひっくるめた「熱帯の入口」のクレオールな町に魅了されていたのだった〉

 

〈怪談には生まれやすい場所というのがある〉──カリブ海マルティニークもそうだろうし、島根県の松江ならば「松江城下とその外側が接する周縁部に怪談が集中している」。階級差。生活圏の違い。

だから新宿、板橋といった〈江戸の出入り口〉にも怪談が生まれた。

 

ハーンの市谷富久町時代。自証院円融寺と地続きのところに住んでいた。「昼なお暗い境内には、松、杉、欅、樫、椎、檜などの老木が生え、その根方には熊笹、いばら、やぶからし、おんばこ、みずひきそうなど各種の野草が生い茂り、雪の降る日には野兎が飛び出したという」と小泉凡は書いている。

ここで語られる「瘤寺の鴉の話」や、ハーンの息子・一雄が「如意輪観音の呪い」に苦しめられた中延の家の話は印象深い。