永井 私がいちばん思ったのは「上がるから、下がる」んだなあということを、思うんですよね。なんか20年やってると、すっごいやる気あった人ほど、なんかに失望しちゃうと。
石川 あー、やめちゃうとか。
永井 離れちゃうとか。やっぱそういうことってあるんですよ。
「今橋愛✕石川美南✕永井祐トークイベント『短歌20年、ひとっとび!』」。開催地は福岡市の天神にある「本のあるところ ajiro」。配信視聴。
2002年の北溟短歌賞受賞者・今橋愛と、次席の石川美南、永井祐。そこから20年。同期としての信頼、共闘など語る。
当然のことだけど三人三様で、本人の語り口と作歌されたものだって一致しない。それでも連帯はある。そういうふしぎに胸をうたれる。
石川美南が一所懸命企画する。配布資料に「二十年前の五首と最近の五首」「短歌やる気グラフ」。学校や職場にいたら、いちばんまともなひとだ。ハレとケがあり、そのどちらにも注力できる。破綻がないからこそ、さまざまな局面で選択できる。選びきれないとか、選ばないということがない。
石川はフラメンコを習っていたがそこでもとめられるのは十二拍子。短歌のリズム五七五七七をすでにインストールしていたから、フラメンコは止めたといったふうな。
永井祐は淡々としている。そのたんたんは虎視眈眈かもしれないが。性格上の波や起伏すくなく、焦りをあまりおもてにださない。第一歌集の出版も今橋愛、石川美南に比べると遅い。
成長曲線は異なる。その感慨を得るためにも時間は必要だ。
参加者からの「上手くなりたい」という質問を、永井は文体的なものだと分析。ただ上手くなりたいだけかもしれない。あるいは抱えこんだ主題を十全にえがく方途として。
「主題と文体どちらが先に来るか」はひとそれぞれと永井祐。たとえば今橋愛にははじめから主題があった。
今橋愛は気持ちのアップダウンが激しい。制御はできないが、翻弄はされない。底を打てば上がりはじめるということがわかっているから。そして気持ちが下がっているときほど、言葉に入りこんでいく。たとえばテレビを一切視なくなり、ひたすら作歌する。
「わたしは『弱さ』で書いている」という表現が印象にのこった。
『プレバト!!』的な、俳句的な意味での添削は減った。現代短歌の多様性はそのためもあるようだ。