自然はまぎれもなく生きてうごいているから、その中から何かを発見するよろこびも、またかぎりがないんですね。それだから、一年はアッという間。しかも精神的にひじょうに充実した一年を過ごすことができて、五年と言い十年と言っても、けっして永い歳月とは思えなくなってくる。
『20週俳句入門』、藤田湘子(1926−2005)。
俳句の奥はかぎりなく深い。その深さを追っかけていたら、イロハのイから教えることがおろそかになる。深さのほうには目をつむって、とにかくイロハだ、と肚(はら)をくくったのである。
「基本の四形式(パターン)」が示されて凄い。季語をどこに置くかも明確。〈私は、五・七・五の定型をもって俳句の大前提とする立場を守るものであるから、自由律を俳句の仲間とは思わない〉という藤田湘子の《切字》と《二物衝撃》が手堅い。《切字》には省略のはたらきもある。
季語の説明はいっさいやめて、季語はそのまま、なんの手も加えず一句の中に置くようにする。
〈俳句を詠うときは、対象を概括的に摑むより、その中の一点に絞って詠うようにしたほうが効果的で、言いかえると、「部分を詠って全体を想像させる」ことがトクなやり方〉
俳人のあいだでは「多作多捨」ということがよく言われる。(……)
多作する、と言っても、すべて名句に仕立てあげようと言うのではない。そんな思いで多作したら七転八倒、たちまち身体をこわしてしまう。多作の本来の目的は、俳句形式とよくなじむということにある。あるいはトレーニングと思えばいい。そうしているうちに、ある日突如として、「これはイケる」という直感が閃くことがある。そうしたら、そこで〈いい句を作ろう〉とがんばればいいのである。
俳句は詩であり創作です。事実のみにこだわっていたら、名句はそうそうできるものではない。過去の体験をあれこれよびさまして状況設定をよりよくして、「ありうべき噓」をつく。
あまたの名句に触れることができるのも魅力。
と言ひて鼻かむ僧の夜寒かな 高浜虚子
乞食(こつじき)に僧が道問ふ春の暮 上村慶次
たんぽぽや日はいつまでも大空に 中村汀女
豆飯や佳きことすこしづつ伝へ 上田日差子
山かぞへ川かぞへ来(こ)し桐の花 飯島晴子
抱く吾子(あこ)も梅雨の重みといふべしや 飯田龍太
七夕や風のしめりの菓子袋
薔薇の坂に聞くは浦上の鐘ならずや 水原秋桜子
口笛ひゆうとゴッホ死にたるは夏か 藤田湘子
朝顔の双葉のどこか濡れゐたる 高野素十
未来図は直線多し早稲の花 鍵和田秞子
秋炉(あきろ)あり逢ひたき人に逢ひ得つつ 松本たかし
道はばの秋空ふかし丸の内 岡田貞峰
短日の梢微塵(みじん)にくれにけり 原石鼎
冬帽を脱ぐや蒼茫たる夜空 加藤楸邨