大漁、異漁。耀

タイトルは タトゥーのようなもの

〈私は昭和二年生れの五十八歳だが、いわゆる少年時代、受験のための勉強に追われたし、私以外の少年、少女も同様だった〉  吉村昭

東京の下町 (文春文庫)

私の住む町で耳にできる楽器と言えば、三味線、琴、尺八程度だが、山の手の住宅街を歩いていて初めてピアノの音をきいた時には、思わず立ちつくした。

吉村昭のエッセイ『東京の下町』(絵・永田力)。幼年期の不安と感激がやわらかなままのこっている。その確かな情感でどこまでも読ませる。

一方で横道にそれる誘惑にも満ちている。冒頭から〈二年前、「別册文藝春秋」に駒田信二さんが「日暮里とニッポリ」という随筆を書いておられるのを読んだ〉とある。そこでは駒田信二魯迅の「藤野先生」のなかの「東京を出てから間もなく、ある駅についた。日暮里と書いてあった。なぜか知らないが、わたしはいまもなお、その名を覚えている」というくだりに言及している。そうなると、駒田信二の書いたり訳したりしたものや魯迅を読みかえしてしまう。吉村昭の書きかたも良いけれど、日暮里がそういう豊かな町でもあったわけだ。

〈日暮里を下町と言うべきかどうか。江戸時代の下町とは、城下町である江戸町の別称で、むろん日暮里はその地域外にある。いわば、江戸町の郊外の在方であり、今流の言葉で言えば場末と言うことになる〉と、記録小説の書き手としての吉村昭は丁寧に話を進める。

御廓外、つまり江戸城の外にあったのだけれども〈江戸末期から明治にかけて、景勝の地である日暮里に別荘が好んで建てられ、文人、画人が多く移り住み、隣りの根岸とともに閑静な住宅地へと変貌していった〉。

牛乳屋さんはハイカラな仕事であったとか、動物園の黒ヒョウが脱走した顛末を読むと、宮沢賢治や内田百閒の小説の匂いが一寸濃くなってきたり。ああ、あの牛乳配達、あの猛獣というふうに。

イカラの扱いが、やはりちがう。〈町の中でみられる動物と言えば、犬、猫以外に牛、馬があった。自動車はめったに通らず、走ってくるのに気づくと、通りすぎた後に立って深呼吸をする。ガソリンの匂いがハイカラな感じで、それを吸う。排気ガスなど人の意識になかった〉

 

〈カレーというものが、甚だハイカラなものに感じられ、その風潮に応じるように、ジャム、クリームパン以外にカレーを入れたパンが現われた。カレー煎餅まで駄菓子屋で売られ、カレー豆もビールの肴などになった〉

 

紙芝居、活動写真の話では唐十郎を連想するし、軽演劇の項では当然色川武大を思いだす。吉村昭には吉村昭の書きかたがあって、今となっては想像するほかない紙芝居や軽演劇に奥行きがでてくる。

いつまでも少年の眼による庶民の暮らしを追っていたいところだけれど、戦争がはじまる。

〈開戦後、町には出来事らしきものは絶えた。盗難、自殺、色恋沙汰などもむろん数多くあったのだろうが、記憶にない。燈火管制で、町は暗く、月と星の光がひときわえていたのが印象に残っているだけだ〉

 

最終回では吉村昭が現在の日暮里をあるく。生き字引と呼ばれる史家を訪ねる。戦前の商店街を、記憶を頼りに地図にしたものを見せてもらい、細部がさまざまよみがえる。