大漁、異漁。耀

タイトルは タトゥーのようなもの

「ああ、あたしが手を触れるものは、何もかも滑稽で、下卑たものになっちまうのね」

劇団新人会『ヘッダ・ガーブレル』観る。上野ストアハウス。

新人会といっても第1回公演は1954年。俳優座から派生した新劇のユニットであり、今回演出にまわった前田昌明は1932年生まれ。91歳だ。

主演の萩原萠と、今回出演はないが永野和宏の3名で劇団新人会という企画制作のユニットらしい。

『ヘッダ・ガーブレル』はヘンリック・イプセン作。訳は、原千代海による。

2時間30分(休憩10分)。

 

キャストはイェルゲン・テスマンに森源次郎(Pカンパニー)、ヘッダ・テスマンに萩原萠(新人会)。

イェルゲンの叔母であるユリアーネ・テスマン嬢に観世葉子。テスマン家にながく仕えるベルテは松本潤子(俳優座)。ブラック判事、森一(俳優座)。

エルヴステード夫人は山本順子(俳優座)。エイレルト・レェーヴボルクが和田響き(東京演劇アンサンブル)。

客演多く、ややギクシャクとした印象。それで却ってPカンパニーや俳優座、東京演劇アンサンブルを観たい気分が醸成される。

 

演出は、ユニークで大胆。台詞は細かく刈りこまれ(レェーヴボルクがだいぶまともな、更生した人物にみえてくる)、『ヘッダ・ガーブレル』といえば舞台奥に掛かっているはずの〈将官の制服を着けた年配の立派な男の肖像〉だけれどこれもない。

もともと、この〈肖像〉が誰なのかイプセンの戯曲を読んでもまったく説明されない。肖像画についての会話もない。読者や観客は、ヘッダの父であるガーブレル将軍だろうと推測するほかなくて、過去に睨まれ支配されつづけるヒロインの不自由を思ったり想わなかったりということになる。

結婚してもヘッダはテスマン家に馴染もうとせず、じぶんの父が健在だったころの意識でいる。ト書では29歳。それでもヘッダは残酷な少女のままなのだ。

この小悪魔的性格と最後の突拍子もない行動は、父の肖像画と相性が良いものではない。演出家・前田昌明は肖像画を外した。そしてなにも飾られていない壁の向こうが最後の突拍子もない場面となって、案外と効果的だった。

(机に置かれた写真立て(それは観客に背を向けている)がおそらくはガーブレル将軍の肖像だったろう)

過去に縛られぬヘッダは未来を視ることができる。戯曲であいまいに触れられるだけのヘッダの妊娠も、原作にないブラック判事のあけすけなジェスチャーと台詞によって明快になり、演出意図がみえてくる。

この舞台におけるヘッダの一見平凡で、奇矯な振る舞いはマタニティ・ブルーによるものらしい。じぶんが生きているうちはおなかの子をどうこうする決断はできぬ。だからせめてもの抵抗として、かつての恋人の事業を妨害する。それを“子殺し”だと思い定めて。

母親になりつつあるヘッダだから、かつての色恋をことごとく忌避する。そういう解釈だったとおもう。

戯曲を読んだときにかんじる悪女、小悪魔、残酷さ。十代の少女の如きヘッダばかりではない。親類縁者のすくないアラサーだってじゅうぶんに孤独に耐えているのだった。