大漁、異漁。耀

タイトルは タトゥーのようなもの

〈ドラマから、省略や飛躍を差し引いてしまったら、「退屈」しか残らないでしょう〉  向田邦子

女の人差し指 (文春文庫)

戸棚の隅のちいさな蜘蛛の巣と、縁日の露店の店番をした話をむすびつけたりする。

「ちょっと、みててもらえますか」と店のおばさんに言われてからの数分間。露店のなかに蜘蛛の巣をみつけたとは書いていない。連想は、〈こんなところに巣を張っていて、なにか引っかかるものがあるのだろうかと思うと、よくしたもので、目に見えないような小さな羽虫が引っかかっていたりする〉──「私」と「小さな羽虫」とのあいだにあった。

〈手洗いにゆく間、私に店番をしてくれということらしい。私はほんの三分ほど露天商になった。客は一人もこなかった。小さな蜘蛛の巣をみて、あのときの当惑ときまりの悪さを思い出した〉

 

一見異なるエピソードをつなげて上手い。向田邦子『女の人差し指』。その観察にも記憶にも昔気質なところがあって、凄くもあり、通用しなくなっている部分もあり。

「買物」の回では同窓会へとつながっていく。

〈「夫」という大きな買物はしてしまったのだ、でも、それっきりではつまらないから、たわしを買ったり、どの洗剤にしようかと迷って、一度籠に入れたのをまた棚にもどしたりして、憂さを晴らしているのであろう〉

 

 

ドラマ書きにとって有難くないことの一つに世の中が早口になったことがある。八年前「七人の孫」ではたしか四百字詰め原稿用紙で六十五枚で充分だった。ところが「時間ですよ」では八十枚書かなくては足りないのである。

『女の人差し指』はタイムカプセル。宝箱のような本。映画雑誌の編集者時代、「ままや」開業のことや海外旅行記、さらに脚本執筆についてと盛りだくさん。

ドラマのアラさがしをしてくる友人に対する長台詞。

「一時間ドラマっていうけど、中身は四十五分なのよ。四百字の原稿用紙で、十八枚書くとCM、また十八枚書くとCMになるのよ。18×4=72枚。中で、テーマはハッキリ。主役は立てろ、ただし、AさんとBさんのからみは三シーン。CさんDさんはからめません。Eさんは映画とダブっているのでセリフを少なく。見せ場はタップリ、遊びも入れる。笑いあり涙あり。為になって面白く、幼稚園の生徒からお年寄りまで受けるホンを書けっていわれてやっているのよ。ガタガタ言わないで頂戴よ!」

 

〈大きな嘘のつける人は政治家におなりなさい。小さな嘘のうまい人はホームドラマをお書きなさい。私はそうすすめています〉

 

〈私は新しいドラマの企画をつくるとき、まず、茶の間はなるべくせまく、汚ないタタミの部屋にする。間違っても皆さんが憧れるような、ステキな家具は絶対に入れない〉

要するに、決して、理想の家、夢の茶の間にしないことが、愛されるテレビドラマの茶の間になるコツなのである。

考えればフシギなことである。

こんなにマイホームが叫ばれているのに、ごく手近かに夢の叶えられるテレビのホームドラマの茶の間に、その実現をのぞまないのはなぜなのだろう。