靴音と、呼吸音と、心臓の鼓動とが絡み合って、独特のポリリズムを作りあげていく。
村上春樹『走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫)』。〈ただ黙々と時間をかけて距離を走る。速く走りたいと感じればそれなりにスピードも出すが、たとえペースを上げてもその時間を短くし、身体が感じている気持ちの良さをそのまま明日に持ち越すように心がける。長編小説を書いているときと同じ要領だ。もっと書き続けられそうなところで、思い切って筆を置く〉
スリリングなメモワールだ。序盤、けっこうハードに走る習慣が語られて、それが〈どうしてある時点から「まじめに」走らなくなってしまったのか〉。
トライアスロンに傾きはじめた「僕」がいる。もちろん小説を書きながら。
それだけではない。〈四十代も半ばを迎えてから、そういう自己査定システムが少しずつ変化を見せ始めた。簡単に言えば、レースのタイムが伸びなくなってきたのだ。年齢を考えれば、これはある程度仕方のないことだ。人は誰しも人生のある時点で身体能力のピークを迎える〉
村上春樹は1983年に村上春樹はアテネからマラトンを走る。雑誌の企画として。この長い引用が美しい。若き日のギラギラとした不平不満のリアルだ。
〈汗をかく暇すらない。空気が乾燥している性で、汗は肌からあっという間に蒸発し、あとには白い塩分だけが残る〉
そしてゴール。〈僕は心ゆくまで冷えたアムステル・ビールを飲む。ビールはもちろんうまい。しかし現実のビールは、走りながら切々と想像していたビールほどうまくはない。正気を失った人間の抱く幻想ほど美しいものは、現実世界のどこにも存在しない〉
僕は走りながら、ただ走っている。僕は原則的に空白の中を走っている。逆の言い方をすれば、空白を獲得するために走っている、ということかもしれない。そのような空白の中にも、その時々の考えが自然に潜り込んでくる。当然のことだ。人間の心の中には真の空白など存在し得ないのだから。人間の精神は真空を抱え込めるほど強くないし、また一貫してもいない。
走っているときに頭に浮かぶ考えは、空の雲に似ている。いろんなかたちの、いろんな大きさの雲。それらはやってきて、過ぎ去っていく。でも空はあくまで空のままだ。雲はただの過客(ゲスト)に過ぎない。
川のことを考えようと思う。雲のことを考えようと思う。しかし本質のところでは、なんにも考えてはいない。僕はホームメードのこぢんまありとした空白の中を、懐かしい沈黙の中をただ走り続けている。それはなかなか素敵なことなのだ。誰がなんと言おうと。