大漁、異漁。耀

タイトルは タトゥーのようなもの

まだ見ぬ怪物を飼い馴らそうとする

『アンチポデス』観る。新国立劇場のシリーズ「『声』 議論、正論、極論、批判、対話…の物語 vol.1」として。

『アンチポデス』を書いたのはアニー・ベイカー。翻訳、小田島創志。演出、小川絵梨子。とある会議室で芸術的、財政的におおきく成功するためのブレインストーミングがはじまる。残業はないらしいが、締切のようなものもなくて、ながい戦いになりそうだ。

この部屋のボスはサンディ(白井晃)。怪物級の物語を生むために各人がテーマに沿ったアイデア(という名の経験。告白)を語ることを求める。さいしょにえらばれるのが性の初体験であるのも興味深い。アメリカ的な精神分析の胡散臭さ。

 

登場人物たちの告白は、断片にとどまっている。それゆえに、それぞれの葛藤や負い目が愛しくみえてくる。

それらは作例や原型になることはなく、時間を割いて語られるテーマのようなものは、時間の概念(水平。垂直。軸。らせん状)と、反対側の世界(アンチポデス。対蹠地)。

物語をめぐる演劇論や、アンチポデスの夢想については寺山修司澁澤龍彦という一つの到達点があるので、単なる「胸糞悪い男性中心社会の会議」ではなくて「ドラマをみつけることができない男たちの傍に立つ地霊の如き『ドラマ』」として容れることも日本では易しい。

「地球の裏側には、ちょうど物のかげが倒立して水にうつるように、おれたちの足の裏にぴったり対応して、おれたちとそっくりな生きものがさかさまに存在している。それがアンチポデスだ」

(……)

「アンチポデスといったな。そのアンチポデスを見んがために、わたしははるばる天竺への渡航をくわだてたといっても過言ではなかろう」

 

澁澤龍彦『高丘親王航海記』

 

すべてのものが南に向かうとき、「市街地という名の北」についてばかり語るのは、なぜだろうか? 北は曇り、日は荒れていた。そこには、血と麦の土地と、縄と、書物と、桎梏があるばかりだった。北は呪い、南は祈った。北は言語で、南は沈黙だった。私は、孤立した個の内部の八甲田を、雪中行軍する第五連隊の悪夢を繰り返していた。南には芸能のさざめきがあった。南の聖地では、「生産とか交換とかが普通におこなわれる」日常の現実は、超えられていた。しかし、私は北に踏みとどまって、言語に執しながら、言語による「もう一つの都市計画」をもくろんでいた。言語は、意味の根拠であることに変わりはなかったが、しかし決して醒めた伝達の手段ではなかった。自由になんか、なりたくないのだよ、と私は言った。演劇が生成されるとき、かならず一つの自由は死ぬのだから。

 

(……)

 

問題は、「密室」でしか培養できなかった劇を、開いた空間としての「市街」へ、どのようにもち出すか、ということであり、この論文の意図も究極的には、密室を解体し、壁を消失させてゆく歴史過程のなかでの、ドラマツルギーの発見ということにかかっているのである。

 

    寺山修司『迷路と死海

 

サンディが来なくなる。チームが解体されるかもしれない。皆で書き上げるべきプロットはまるで進まない。

喜劇として書かれている。そして演出されている。

登場人物たちによる物語づくりは難航する。衝突し、練っていくというよりは、アイデアを出しては捨てての繰りかえし。一つに収斂していかぬからこそ、場に多様性がのこるのだ。

一見無駄話ふうな、書きこみのすくない台詞で好み。

アイスランド生まれの女性エレノアを演じた高田聖子が抜群に良い。暗転や時間経過のたびに変わっていく他との距離や心身の疲労をみせて凄い。

終盤で神話的なものを語りはじめるアダム(亀田佳明)は原作では黒人らしい。

途中退場することになる実直なダニーM2に、チョウ・ヨンホ。

IDを発行してもらえないジョッシュ、草彅智文。アシスタントのサラは加藤梨里香

書紀のブライアンには八頭司悠友。へらへらしているだけのようで、後半に見せ場がある。

先輩格のダニーM1(斉藤直樹)。つらい生い立ちのデイヴ(伊達暁)。

 

雷雨に降り籠められ、神話的な物語を口にすることで「再生」を許してくれるような安手の母性愛めいた話ではなかった。

登場人物たちは「物語」からの愛に飢えていたのかもしれない。それは満たされなさそうだ。

しかし「物語」への愛を再確認することはできる。存外ナイーヴな少女の話だったともいえる。