大漁、異漁。耀

タイトルは タトゥーのようなもの

「僕はね、あの女と結婚してもいいと思つてゐるんです。しかし、さうすると、あの女が可哀想ですよ。僕は、半年経たないうちに、あの女を棄ててしまふでせう」

牛山ホテル(五場)

岸田國士「『歳月』前記」という短文には、つぎのようにある。

「牛山ホテル」は昭和三年十二月、中央公論に書いたもので、天草の方言は友人のH君を煩はしてやつと恰好をつけた。
 読みづらいといふ批難をあちこちから受けたが、我慢して読んでくれた人からは、なるほどこれは方言でないといかんだらうと云はれた。
 登場人物にはモデルがありさうで、実は、はつきりしたモデルは一人もない。たゞ、場所だけは印度支那の海防(ハイフオン)といふところにとり、今もなほそこにある筈の「石山旅館」を舞台に借りた。曾遊の地ではあり、さまざまな印象が空想の手がかりになつてゐることはたしかだが、人物の一人一人に、実在の誰彼の面影はさらにないのである。

「作者の言葉(「牛山ホテル」の後に)」では〈この作品が私のほかの作品と違つてゐるところは、ある程度モデルがあるといふことである。もつとはつきり言ふと、私の過去の生活、経験、観察が、直接この作品の中に取り入れられ、登場人物の一人一人に、いくらかづつ実在の人物の面影をしのばせるものがある、といふことである〉と語られており、反対のことを言っているようだけれども、取材というほどのモデルはなかったと判る。殊更な変形、歪曲もなさそうだ。

 

岸田國士『牛山ホテル』。時間をかけて心理をあぶりだす。事件によって物語が推進するということはない。そこがいかにも旧来のリアリティを重んじる「文学」で、安心の読み味なのだ。退屈をかんじるひともいるかもしれない。

舞台は「仏領印度支那のある港」、「九月の末――雨期に入らうとする前」。ヒロイン・さとはこの地で事業に穴をあけた真壁の妾だが、その関係を解消し、日本に帰る船もすでに手配されたところ。日時をずらして真壁もいずれここを発つ。

それなりに困窮を免れてきたさとが日本に帰ることは正しいのか、どうか。そういうサスペンスである。

真壁には〈猶太系の仏国女〉ロオラという妻がいて、『舞姫』の如き愁嘆場はすでにさとから奪われている。真壁は真壁で『ファウスト』のメフィストフェレスや『ピグマリオン』のヒギンズのような誘惑者、教育者たることを望まない非−植民地主義的なインテリだから、さとに対して故郷に帰れとも帰るなとも言えないでいる。

他人をアテにしてもいいが、配偶者や血縁者に義理立てすることもない。そう真壁はかんがえている。

真壁  世の中の奥さんたちみたいに、男の苦労まで背負い込む女になつちやおしまひだ。女は、自分だけで背負ひきれないくらゐの苦労があるんだからな。

〈おれはお前を教育しようと思つたことはないが、お前はなかなか心掛がよかつた。しかし、いろいろ考へてみると、お前をまたお父つつあんの手へ戻すことは、なんだか、あぶないやうな気がするなあ〉

真壁  明日の船で、此の土地を離れるつていふことは、逃れられない運命かどうか。寧ろ、おれといふ人間がゐる為めに、さうなるのではないか。かう考へてみると、おれは、今、お前の運命について、もう一度神に訊ねて見なければならないといふ気がし出した。――おれが神といふのは、お前の本心だ。

 

さと  そぎやな云ふとつても、あん人ん気持から云へば、わしば国に戻したかつだもね。国に戻つたてちや、わしが仕合せになるとは思つとりやせんとなるばつ。そツでんが、やつぱ、わしば国に戻した方が安心すツとたあ。そるが、わしにやわかツとだもね。

やす  そらあ、あんたん、そぎやん思ふだけたい。あん人が安心しうが安心しみやあが、あとんこたあ、どうだツたツてちよかぢやなツか。あんたんこぎやんしたかて思ふこつば、させてくれしやがすれば……。

あるいは、さとにはじぶんがドラマから切り離されているという気があるのかもしれない。