大漁、異漁。耀

タイトルは タトゥーのようなもの

失われた「鬼」を求めて

他界への冒険~失われた「鬼」を求めて~ (光文社文庫)

【小松】都は富がある場所というふうに農村から見られているし、男をあげる場所、都市というのはだめな人間でも変身できる場所であるとも見られている。

1984年、朝日出版社のレクチャー・ブック・シリーズの一冊として刊行された『他界をワープする――民俗社会講義』が光文社文庫となって『他界への冒険〜失われた「鬼」を求めて〜』(2003)。小松和彦立松和平の対談。オファーは立松和平から。どちらも1947年生まれ。

トリックスター、メディア論として焦点を当てられる他界は興味ぶかい。しかし「講義を終えて」で小松和彦が書いているとおり〈私たちがここで議論した事柄は未熟なものばかりである〉。〈ここで用いられている「他界」という語の意味はきわめて広い〉

「中心」に対して「周縁」、「表」に対して「裏」、「光」に対して「闇」、「われわれ」に対して「かれら」、「人間」に対して「神」や「妖怪」、「平地」に対して「山」や「海」、「生」に対して「死」、「男」に対して「女」、「支配」に対して「被支配」、「差別」に対して「被差別」、等々を一括して「他界」と呼んでいるのである。

ここまで意味を拡大してしまうと話はただただ横辷りしていくのみで終盤は現代社会や都市の単なる批判に陥る。たとえれば「右翼」に対する「左翼」といったところ。行動派の立松氏から想像力が枯渇して盗作騒ぎを起こすことになるのもなんとなくわかる。

また、ここでの小松和彦民俗学の役割にこだわるあまり男女の役割が逆転したり曖昧になったりすることを「悪しき平等主義」と言ってしまっている。立松和平バイセクシュアルを否定的に理解している。「他界の力が弱くなってくると、男も男を演じなくていい、女も女を演じなくていいというふうになってくる。現実にそうなってきてると思うんです。(……)灌漑施設ができて、コンクリートでびしっと堤防ができてね、上流にダムができる。水が管理できてくる。田んぼの草も除草剤をまけばいいというなら、男と女の役割がどんどん壊れていくと思うんですよ。でも、けっして壊れきっていないわけです。中途半端にある。バイセクシュアルとか、変な現象でそういうのが噴出している」

 

それはそれとして語り出しは美しい。

【立松】僕らは現代に生きていても、他界に囲まれている。いくら科学が進歩して、いろいろなものが人間の側に引きつけられても、引きつければ引きつけるほど、また他界も拡がってくる。認識とはそういうものじゃないかと思うのです。

 

【小松】できるだけ楽をしたいという発想で成り立ってきたのが現代文化といったらいいでしょうか。苦労をしないで富を得たいというところでしょうが、これに対して民俗社会では、苦労をして働くことが富に結びつくという考えがあって、それが表現されていると思います。

 

時間的に死が想定されるのならば、空間的にも死の世界が用意されねばならないという指摘にハッとする。

「自分の家から歩いてちょっと行ける神社の脇にある沼でもいいし、淵でもいいし、川でもいい。いろいろなところに他界への穴があって、日常生活の場にさえそういう他界に通じる穴ぼこがぼこぼこ開いている。それと共存しながら人間が生きていて、ちょっとした誤りやはずみで、子供であれ、大人であれ、あっちへ行ってしまう」(小松)

【立松】僕らが何でもなく突き抜けていく空間が、たかだが五十年前には深々とした闇の中にあって、その闇は追剥ぎがいるくらいに豊かだったと思うんですよ。鉄の箱に入って十份で突きぬける空間は貧しいんだ。

立松和平と山。「山の地形はいつか見た景色ばかりでできてるという不思議な世界ですよ」

「山へときどきキノコ採りに行って迷うんですよ。小さな山に入ってもね、地図で見るとなんだこんなところかというようなところで、歩いているうちに出口がなくなる」