大漁、異漁。耀

タイトルは タトゥーのようなもの

〈「おめは手が不自由だから百姓はできねげんとも、頭(あだま)はいいんだがら、勉強(べんきょ)で見返してやれなぁ」/何度かいわれているうちに、清作も母の気持がわかってくる〉

遠き落日(上) (講談社文庫) 渡辺淳一遠き落日(上) (講談社文庫)』。映画は、1992年。新藤兼人監督による母子愛もので、暴露本的な原作(1979年)とはちがった匂いのようだけれども。
『遠き落日』は野口英世伝。「私」が取材にメキシコのメリダを訪れるところからはじまる。モダンな文体ではない。江戸川乱歩を読んでいるようなもったいぶったおどろおどろしさがある。この小説で印象的なのは野口英世の語学力、その学習のさまと金銭感覚。〈野口は演説の上手い人であった〉

野口の、あの異様にかたくなでエキセントリックな性格は、維新で遅れをとった会津という独特の土壌で育まれたとはいえ、二十五歳から死に至る五十三歳までの、人生の最盛期を野口は外国で暮らしているのである。

自己主張がつよく、大した収入もないのに金遣いが荒い。

ただせびって受け取るだけだから、本当の金の有難味はわからない。しかもせびることに、羞恥や屈辱を感じないのだからこんな強いことはない。五十円は、まさに労せずしてころがりこんできたものである。それが無くなれば、また誰かねだる相手を探せばいい。


堀江貴文の引用で有名なのはつぎのところ。

血脇守之助は、後年子息の日出男氏に、「男にだけは惚れるな」と述懐したという。(野口英世記念会・関山英夫氏)
惚れて女に注ぎこむ金はしれている。しかし男は怖い。一度吸われたら、どこまで吸いとられるかわからない底無し沼である。女は適当なとき、愛想づかしや別れもあるが、男はそうはいかない。一生、金をくいつぶす。

野口清作(のちの英世)は誰にでも無心し、散財する。
〈渡部は清作のエゴイスティックな性格を充分知りながら、そこにむしろ、若い逞しさを感じてもいたのである〉とか、
〈「それほど洋服が欲しいなら、なぜ私にいわないのか」
守之助としては、清作のいじましさに腹が立ったが、それ以上に、自分以外の男に頼っていったことが不快だった〉といった具合に。


日本で清作は、情に苦しめられまた悪用した。清国やアメリカでそうはいかないが、実際的で努力型のために重用された。