大漁、異漁。耀

タイトルは タトゥーのようなもの

〈つぶれてしまった雑誌には、必ずといっていいほど商業主義に媚びなかった魅力の一つや二つが見出されるのである〉  寺山修司

さかさま博物誌青蛾館 (角川文庫)

わたしにわかっていることは、人はだれでも決して自分には賭けない、ということである。骨牌はいつも比喩を超えて実在し、偶然の至福を受けるのはカルタであって、ジョーカーやクイーンはますます美しく、そしてそれをめくる手の方はテーブルの片隅で少しずつ醜く老いてゆく──

寺山修司『さかさま博物誌 青蛾館』。このエッセイ集は「青蛾館」「財産目録」「首吊人愉快」「賭博骨牌考」「手毬唄猟奇」、五つのパートから成る。

 

友人知人や「私」の身辺を書いてはいるけれど、話として出来過ぎている、ほんとうのことではあるまいとおもいながら読み進めさせるところがある。時折本音や真実が顔を出す。

〈私は靴でも修理するように啄木や白秋の歌をおぼえ違え、作り直し、そして自分のものに偽造してしまったのである。

本当のことを言うと『贋作つくり』のたのしみが、私にとって文学の目ざめだったのである〉(「童謡」)。

十五歳の夏に避暑地で年上の女性からチェスの手ほどきを受けた、なんて思い出もある(「チェスの夏」)。

ロマンスはなかった。しかしそれがきっかけで、特別な駒と規則の「世界でたった一つのチェス」をつくった。〈この『密通チェス』も、もしかしたら少年の日の私自身の非力さへの鞭のようなものかも知れない〉

火遊びの如きドラマを寺山が欲したかというと、そうではない気もするのである。

田中未知の本『質問』を紹介する「質問耽奇」で、寺山もいくつか問いを立てている。

その一つ。〈質問は孤立を深めるのでしょうか、それとも連帯を深めるのでしょうか〉

 

〈観客は異化ではなく、同化を求め、批評するよりも参加することをのぞんでいるのである〉(「書簡演劇」)というのは観客論でもあるが寺山修司のもとめたものなのだともおもう。

寺山のいう若き日の《非力》とは、アバンチュールの欠如でなくてさまざまな別離を避けられなかったことだろうか。

〈吸血鬼には特有のコミューン的性格があり、一度血を吸った同士は相互的関係を持続しつつ、同じ世界を生きることになる〉(「吸血鬼入門」)

 

アルフレッド・ベスターの短編「マホメットを殺した男たち」に触れて寺山修司は〈タイムマシーンは便利な機械だが『自分の過去』だけしかさかのぼることができない。結局、私がマホメットを殺しても、それは私の過去からマホメットとその影響が消失するということにしかならない。すべての人間の過去が共有されうるような歴史は、いままでのところ、想像されることさえ一度もなかったのである〉と、つながることのむずかしさを語ってもいる。いかにつながるか? だれと?

 

〈ベストセラーの読者になるよりも、一通の手紙の読者になることの方が、ずっとしあわせなのだ、と、私はいつでも思っている〉(「手紙狂」)

 

〈走りながら読んだり、戦いながら読んだり、泳ぎながら、あるいは寝床の中で女と愛しあいながら読んだ時代というのはなかったのだろうか? 私は次第に、人生が私たちを結合させる傾向があるのに対し、書物は私たちを分離させる傾向があるということに苛立った〉(「書物という虚構」)