大漁、異漁。耀

タイトルは タトゥーのようなもの

〈思い浮べれば思い浮べるほど、混乱したシインがシインに重り、雑沓した光景が光景に重って、乱れて、絡みついて、こんがらかって、何が何だかわからないような形になった〉

東京震災記 (河出文庫)

こうしてこの筆を執って見ようと思うまでに、既に一月半以上の月日が経った。その間にはいろいろなことがあった。それに付随して起った甘粕事件もあれば、暴動殺人の亀戸事件もあった。その時分はまだ暑かったのに、蚊がいたのに、虫が鳴いていたのに、今では遠い山の端に雪が輝き、時雨が降り、柿の実が赤く、月が夜毎に白銀のような光をあたりに漲らした。

それにもかかわらず、私達は未だにその話から、気分から、心持から全く離れて来ることが出来なかった。

田山花袋『東京震災記』(1924)。〈すべてが歪んで、曲って、不整になって、しかも間断(ひっきり)なしに動揺して行っているのを私は見た〉

さまざまな人物が見たり聞いたりしたことを、いくらかの時を置いて、書き出していく。ジャーナリズムというよりは、やはり自然主義なのだろう。書き手である「私」も興奮や好奇心を隠さない。

私は出かけた。どうしてもじっとして家にいることは出来なかった。本所(ほんじょ)には知っているものがいるのに、その消息は少しも分らないばかりでなく、いろいろな恐ろしい風説が──本所は全滅だとか、死人が山ほどあるとか、隅田川は死人で埋められたとか、いろいろな風説が伝って来たので、それで私は落附いてじっとしてはいられなくなったのである。

私は代々木の停車場を左に見て、踏切を越して、急いで千駄ヶ谷の方へと行った。(……)私はそこから千駄ヶ谷の原に出て、駅の方へと向って行くと、電車の通らなくなったレイルが、いつかひとり手(で)に道となっていて、誰でも皆なその線路を伝って歩いて行っているのを眼にした。(……)

無政府、無警察と言ったような状態が一種不思議な気分を私に誘った。一日で何も彼も変ってしまったように──今までの勢力は勢力でなく、今までの権威は権威でなく、全く異った何か別なものが不意にこの地上にあらわれて来たというような心持を私は感じた。

交通手段が断たれてもいるけれど、通信、連絡の術がない。安否を知ろうとおもうとぐんぐん歩いていくほかない。「私」は代々木、千駄ヶ谷信濃町、四谷、靖国神社とやってくる。

〈それは三日目であったが、実際、その時分には、物を売っているものなどは、何処にも見出すことは出来なかった。飢を抱えて逃げて来ている罹災民すら、まだ救護の結飯にありつかないくらいであったから……。火に追われて、命からがら逃げて行った気勢(けはい)がまだあたりにはっきりと残っているくらいであったから……〉

 

両国の回向院で「私」は想う。

〈私は安政地震の時をくり返した。その時にも矢張この川のために遮られて、無数の焼死者を出したのではないか。今日と少しも違わない阿鼻叫喚の状態を呈したのではないか。否、そのために、その霊を慰めるために此処にこの回向院が出来たのではないか。この仏像が出来たのではないか。どうしてこう人間は忘れっぽいのだろう? どうしてこう人間はじき大胆になるのだろう?〉

 

〈『廃墟』ということは、この大きな自然のリズムではないか。どんなものにでもいつか一度はやって来るものではないか。人間の『自然死』もまたこの『廃墟』の一種ではないか。人間の心の中にも絶えず『廃墟』が繰返されているのではないか。淫蕩、倦怠、奢侈、疲労、そういうものの中に『廃墟』が常に潜んでいるのではないか〉

このあとに続く文章が田山花袋らしい。

〈そして『廃墟』の中から更に新しい芽が萌え出すのである。新しい恋が生れて来るのである。新しい心が目ざめて来るのである〉

私は何となしに新しい芸術をそこに発見したような気がした。《こういう境も、こういう形の動揺、こういう心の動揺も決して芸術にならないことはあるまい。静かな芸術も好い。しかし、こういう形もまた芸術ではないか?》

「私」は新しい「東京」や新しい「銀座」をおもいえがいてみたりもする。

〈外国の都会に比べても決して恥ずかしくないような都会の中心が出来るだろう。それこそ全く純粋な東京──江戸趣味などの少しも雑(まじ)っていない純粋な東京が蜃気楼のようになって此処にあらわれて来るだろう〉

田山花袋の都市論や、K翁が語る活動写真の話もおもしろい。

〈活動を見る時のK翁はそれは熱心だッた。その時だけは、彼は人生の退屈なことも、時分の生活の生(い)き効(がい)のないことも、平凡なことも、何も彼も忘れた〉