大漁、異漁。耀

タイトルは タトゥーのようなもの

「永井荷風も永六輔もいつも寄席にいたでしょ。常に人混みの中にいないと見つけられないよ」  高田文夫

散歩の達人 2022年 05月号 [雑誌]

散歩の達人』2022.5 。「俳優 安藤玉恵を育んだ西尾久の街」目当ての購入。大特集「都電荒川線さんぽ」と特集「街には笑いが必要だ!」の相性も良い。

 

安藤玉恵の地元は、三業地。「私の祖母は、阿部定さんを見たことがあるらしいんです」

玉恵 私、阿部定もそうですけど、三面記事になるような、女性の手記や事件を追うことに、昔からとても興味があるんですよね。

自分はたまたまそうではないけれど、そこに至るまでの生育環境や、心理的な変化(情動)は、もしかしたらみんな紙一重なんじゃないかって。

 

(……)

 

世界が分かれていない(一般的に言われる真っ当と異端の“境界線”のない)面白い地で生まれ育ったことが、「人」への好奇心につながったのは、確かにそうかもしれない。

安藤玉恵は実家の『どん平』で一人芝居を開催したりもする。

 

平日なので全然行けない「『都電落語会』を知ってますか?」の記事。一寸嬉しい。

 

特集「街には笑いが必要だ!」に登場する高田文夫が軽快で、沁みる。

「どっか行くと、あいつが面白いとか噂を聞くじゃない? そういうのを実際に見てそれをラジオで話すんだ。これは永六輔に習ったこと。永さんは常に情報発信してくれたのよ」

「よし一回見てみよう。これだね。数見るんだよ。行けばなにか拾える。芝居だってさ、行けばチラシをいっぱいくれるだろ。それを見てさ、じゃあこれとこれに行こうとか。その繰り返し。気になったら足を運ぶ、見て面白いと思ったら見続ける、そういうことだよね」

まだ見ぬ怪物を飼い馴らそうとする

『アンチポデス』観る。新国立劇場のシリーズ「『声』 議論、正論、極論、批判、対話…の物語 vol.1」として。

『アンチポデス』を書いたのはアニー・ベイカー。翻訳、小田島創志。演出、小川絵梨子。とある会議室で芸術的、財政的におおきく成功するためのブレインストーミングがはじまる。残業はないらしいが、締切のようなものもなくて、ながい戦いになりそうだ。

この部屋のボスはサンディ(白井晃)。怪物級の物語を生むために各人がテーマに沿ったアイデア(という名の経験。告白)を語ることを求める。さいしょにえらばれるのが性の初体験であるのも興味深い。アメリカ的な精神分析の胡散臭さ。

 

登場人物たちの告白は、断片にとどまっている。それゆえに、それぞれの葛藤や負い目が愛しくみえてくる。

それらは作例や原型になることはなく、時間を割いて語られるテーマのようなものは、時間の概念(水平。垂直。軸。らせん状)と、反対側の世界(アンチポデス。対蹠地)。

物語をめぐる演劇論や、アンチポデスの夢想については寺山修司澁澤龍彦という一つの到達点があるので、単なる「胸糞悪い男性中心社会の会議」ではなくて「ドラマをみつけることができない男たちの傍に立つ地霊の如き『ドラマ』」として容れることも日本では易しい。

「地球の裏側には、ちょうど物のかげが倒立して水にうつるように、おれたちの足の裏にぴったり対応して、おれたちとそっくりな生きものがさかさまに存在している。それがアンチポデスだ」

(……)

「アンチポデスといったな。そのアンチポデスを見んがために、わたしははるばる天竺への渡航をくわだてたといっても過言ではなかろう」

 

澁澤龍彦『高丘親王航海記』

 

すべてのものが南に向かうとき、「市街地という名の北」についてばかり語るのは、なぜだろうか? 北は曇り、日は荒れていた。そこには、血と麦の土地と、縄と、書物と、桎梏があるばかりだった。北は呪い、南は祈った。北は言語で、南は沈黙だった。私は、孤立した個の内部の八甲田を、雪中行軍する第五連隊の悪夢を繰り返していた。南には芸能のさざめきがあった。南の聖地では、「生産とか交換とかが普通におこなわれる」日常の現実は、超えられていた。しかし、私は北に踏みとどまって、言語に執しながら、言語による「もう一つの都市計画」をもくろんでいた。言語は、意味の根拠であることに変わりはなかったが、しかし決して醒めた伝達の手段ではなかった。自由になんか、なりたくないのだよ、と私は言った。演劇が生成されるとき、かならず一つの自由は死ぬのだから。

 

(……)

 

問題は、「密室」でしか培養できなかった劇を、開いた空間としての「市街」へ、どのようにもち出すか、ということであり、この論文の意図も究極的には、密室を解体し、壁を消失させてゆく歴史過程のなかでの、ドラマツルギーの発見ということにかかっているのである。

 

    寺山修司『迷路と死海

 

サンディが来なくなる。チームが解体されるかもしれない。皆で書き上げるべきプロットはまるで進まない。

喜劇として書かれている。そして演出されている。

登場人物たちによる物語づくりは難航する。衝突し、練っていくというよりは、アイデアを出しては捨てての繰りかえし。一つに収斂していかぬからこそ、場に多様性がのこるのだ。

一見無駄話ふうな、書きこみのすくない台詞で好み。

アイスランド生まれの女性エレノアを演じた高田聖子が抜群に良い。暗転や時間経過のたびに変わっていく他との距離や心身の疲労をみせて凄い。

終盤で神話的なものを語りはじめるアダム(亀田佳明)は原作では黒人らしい。

途中退場することになる実直なダニーM2に、チョウ・ヨンホ。

IDを発行してもらえないジョッシュ、草彅智文。アシスタントのサラは加藤梨里香

書紀のブライアンには八頭司悠友。へらへらしているだけのようで、後半に見せ場がある。

先輩格のダニーM1(斉藤直樹)。つらい生い立ちのデイヴ(伊達暁)。

 

雷雨に降り籠められ、神話的な物語を口にすることで「再生」を許してくれるような安手の母性愛めいた話ではなかった。

登場人物たちは「物語」からの愛に飢えていたのかもしれない。それは満たされなさそうだ。

しかし「物語」への愛を再確認することはできる。存外ナイーヴな少女の話だったともいえる。

「おまえはじぶんが信じるものしか見れないからダメ。人間は信じられないものも見えるからいいんだよ」

インスタント沼

肝心なことが全然見えてないんだよね。

幽霊とかUFOとか見たことある? あたしはあるわよ。

 

(……)

 

たまには、ありえないものとか、見なさいよ。

「たとえば、いまそこで河童がウロウロしてるけど、どうせあんたには見えないんでしょ?」と、母(松坂慶子)に言われる沈丁花ハナメ(麻生久美子)。

2009年の映画『インスタント沼』。脚本・監督、三木聡

河童とか、それより凄い怪異も「信じる/信じない」ではあるけれど、恋だってそう。恋する心も一つの怪異だ。

ハナメには母がだれかを愛したことも奇異ならば、そのあいても奇異。映画『蒲田行進曲』で松坂慶子と共演した風間杜夫の登場である。ここで風間が演じるのは銀ちゃんじゃあない。ヒッピーくずれのファッション、額は後退したが長髪で、中年肥り。若い客(相田翔子)のまえでは格好つけるが、二枚目を気取る容姿ではない。

このインチキ骨董屋をダミ声でゲスに演じることもできたはずだ。しかし風間杜夫は美声のロマンチストとして演った。このチョイスがじわじわ来る。『蒲田行進曲』の銀ちゃんのような浮わついた男の、堕ちつつある中年期。なにかを手離さないでいる。この男からハナメに引き継がれるもの。「人間は信じられないものも見えるからいいんだよ」

岩松了村松利史笹野高史ふせえり松重豊温水洋一堀部圭亮江口のりこ五月女ケイ子石井聰亙石井岳龍)などキャストを書き連ねていくだけでも気持良いけど、加瀬亮が担ったキャラクターも会心の出来。

電気工のパンク。名はガス。現場仕事のできる若い男で、狡く、ドライなところもある。それをハナメに責められたりもする。

血だまりの(イマジナリー)フレンド

マリグナント 狂暴な悪夢(字幕版)

ジェームズ・ワン監督『マリグナント 狂暴な悪夢』(2021)。

さまざまな引用のなかでいちばんつよくかんじたのはウェス・クレイヴン。『エルム街の悪夢』『スクリーム』『壁の中に誰かがいる』……。襲ってくるのは人間的な身体能力と、憎悪。

スリラー、サスペンス要素ばかりがウェス・クレイヴンなのではない。アメリカの、夢のような青春の匂いがするのはヒロイン(アナベル・ウォーリス)の妹シドニー(マディー・ハッソン)のためだ。シドニーは女優をしている。衣装のままヒロインの入院先に駆けつけたりする。

シドニーは霊視や超能力をけっこう信じているが、刑事に一蹴されてしまう。渦中のヒロインの判断でなく、社会人としてはまだ未熟な妹の見立てだから、この物語に超自然のものはないとみていい。この辺りの、犯人やジャンルを絞りこんでいく脚本が親切だし巧い。

シアトルの埋め立てられた地下の街というのも装置として色っぽい。

さいごは、東京大衆歌謡楽団。

「『二つ目物語』完成記念特別上映会」行く。

監督、林家しん平。上映前の進行は蝶花楼桃花。しん平師、喋れば飽きさせない。今作・柳家㐂三郎の演技と『落語物語』(2011)の柳家わさびの違いや、前座ぽっぽ→二つ目ぴっかりを経てしん平映画常連である蝶花楼桃花のこと。シネマ・ロサ公開まで漕ぎつけたプロデューサーの話など。

3話のオムニバス。各話40分くらいあり、2時間超えの映画である。寄席に来た気分で、としん平師。言い換えれば、一人会ではない。多数の演者による新作落語の会のような。おなかいっぱいになってしまうところも。

上席・中席・下席と銘打たれた各話の題は「貧乏昇進」「幽霊指南」「モテ男惚れ女」。

パンフレットに〈二つ目とは前座と真打に挟まれた十数年間の期間です。芸が一番伸びる時で、師匠から少し離れて自分の落語を作り上げる大事な期間ですが、怠けようと思えば幾らでも遊んでいられる自堕落な期間でもあります〉――。お金がなかったり(「貧乏昇進」)、異性や異界のものを演るのが下手だったり(「幽霊指南」)、オンナにうつつを抜かしたり(「モテ男惚れ女」)という二つ目の危機を、喜劇と怪獣映画のテイストで撮る。

 

シリアスなばめんで、いかにも玩具のナイフがでてくる。満座の客がドッとウケる。刺されて苦悶の表情に、好意的な笑いが起こる。落語だし、クラウドファンディングではあるし。ここじゃあシャレがわかったほうが得。

鹿芝居(噺家の芝居)ゆえ、出演者たち本業の落語が聴きたくなる。橘家文蔵イイナァとか。春風亭柳朝は飄々としてるなあとか。古今亭菊春マヂヤヴァいとか。

「幽霊指南」主演の柳家さん光、林家なな子。「モテ男惚れ女」の林家あんこ、金原亭世之介、三遊亭歌る多。好奇心がむくむくと。

〈そこからわずか数手で形勢は非情にも傾きはじめる 将棋とは逆転のゲーム――〉

ひらけ駒! 3巻

南Q太『ひらけ駒!』第3巻。

 

「やだ――ちょっとそこ引かないでくれる べつに若い子見に行ってるわけじゃないのよ」

「あたしは若い子 見に行ってるよ(キッパリ)」

女子アマ団体戦。おとなのチームとこどものチームが対戦する雑多。おひるごはんをたべながら、おとなはビギナーズセミナーの話。講師は奨励会の男子高生だったりする。

齢で世界を視て愛でるということもある。

 

いくら優勢を築いていても たった一手の悪手で全てを無にすることがある

将棋というゲームの それが怖さであり魅力でもある

マチュアの母は逆転される。主人公・宝はそういう負け方かたはしないが、じぶんは将棋が弱くなっている、というネガティヴ思考に。

「宮殿のことパレスっていうでしょ」「だからパレスサイドビルなのね」

ひらけ駒! 2巻

南Q太『ひらけ駒!』第2巻。

「今日の棋譜 書いておいたら よかったかな〜〜

一応道場でも 相手の人に ことわったら 棋譜書いても いいんだって」

「羽生さんも 深浦さんも 小学生で 書いてた」初めての棋譜。こどもの夜の熱中。

 

「考えてもみろ どんな奴でも はじめた時は 15級だったんじゃ」

「ちがう あの人たちは 生まれた時から 段だったんだよ」

少年の、天才への敬意。

その母も、女子アマ団体戦に参加。上昇志向すぎぬアマチュアの恍惚と不安。