井上ひさし『化粧』。収められているのは表題作と、「芭蕉通夜舟」。どちらも一人芝居のための戯曲。
井上ひさしの戯曲はハッキリしている。観客という「受け手」にとっても、俳優なる「受け手」に対しても。
「化粧」は、はじめのト書のなかに〈彼女自身が信じているところによると、彼女は、大衆劇団「五月座」の女座長五月洋子、四十六歳〉とある。これは誤読しようがない。終盤でいきなり謎解きされるわけではない。
台詞も巧み。
お化粧が薄いんだよ、おまえさんは。たのむからべったりと壁のように塗っとくれよ。化粧のずぼらを覚えたら、大衆演劇の役者はおしまいだよ。
化粧代を吝嗇(けち)ったばっかりに素顔のボロがあらわれて、これまで大衆演劇の一座がいくつ潰れたか知れやしないんだよ。
二回も稽古をやって、それでも段取りがのみこめない役者は、もう新劇にでも行くしか道がないんじゃないかしら。
といった具合。舞台となる世界における常識を綺麗に盛りこんでくる。
と、ハナからヒトを食っている。
連句の冒頭(あたま)の発句には、挨拶の気持をこめるのがなにより大事とされております。そういうわけでございますから、このお芝居の冒頭にあたる第一景で、みなさまに御挨拶をもうしあげてもべつに罰は当たるまいと考えたのであります。
いまさら井上ひさしの本の書きかた、緻密で、遅筆でというところにおどろくこともないのだけれど、挨拶のあとのばめんは「蝉吟公墓前」、〈詩人が二十三歳の夏、藤堂新七郎家の若殿様には、あえなくはかなくなられました。若殿様の御名(おな)は良忠。俳号は「蝉のようによく吟じよう」というところから蝉吟。享年二十五〉。
同性愛的な近しさにあった主君である。それが後年に〈閑さや岩にしみ入る蝉の音〉として花ひらくのでもある。
そこからすぐに雪隠のばめん。「芭蕉翁の持病は、便秘と、便秘による痔と、胃腸病でした」と。
松尾芭蕉は若いころ駄洒落のつよい談林俳諧に染まっていた。そのままでは、まわりとなにもちがわない。だからもがいて、抜けでようとする芭蕉。ものの美しさに気づく。
なぜ月はあんなにも美しいのだろう。なぜだ? たぶん、月に持主がいないからだろう。(大きく頷いて)日本橋の越後屋両替店の主人のような大分限者でも、加賀百万石のお殿様でも、あの月を己(おの)がものにすることはできない。つきつめていえば、月はすべての人のものだから美しいのだ。うん、きっとそうにちがいない。
雪は消えるから美しい。つきつめていえば、無常なるもの、はかないものはすべて美しいのだ。いや、はかないものを美しいと思わなければ人間は生きて行くことができないのではないか。というのは、その無常ではかないものの代表が人間だからなのだが……。
《月》も《雪》もだれかに専有されないかぎり普遍の色が濃やかだ。そのことを小沢昭一に科白される。自己愛から離れたところで讃えられる美。それがこころであり、ことばではないか。
芭蕉は《無用の用》に至る。《わび》《さび》にも。
野宿する身の貧しさ、やるせのなさ、切なさ、侘しさを、あべこべにこちらから笑顔で迎え出ること、それが誠(まこと)の「心のわび」というものではないのかな。
俳諧においては、時めいているものは材料としてふさわしくない。また腐りかけているものも俳諧には向かない。「なぜでしょうか? ばせをくん?」(手をあげて)ハイ、どちらの状態も露骨すぎて面白味がないからです。そのものの時めくさまがおさまって光がくすんでさびしい感じがしはじめたころ、つまり、さびかかったときを捉えて詠む、それが俳諧師の仕事です。そしてその〈さび〉という時に立って、そのものの時めいていた過去と、もう滅ぶしかない未来とを同時に匂わせるのです。
そして辿りつく《かるみ》。