大漁、異漁。耀

タイトルは タトゥーのようなもの

〈そうだ私 いつもその2つに分けてた 老と若 世界はその2つしかないみたいに〉

49歳、秘湯ひとり旅 (ソノラマ+コミックス)

松本英子のエッセイ漫画『49歳、秘湯ひとり旅』を堪能。どんなフィクションにも書き手の実体験を伴ったリアリティは入りこんでいるだろうけど、そのうえで作家が透明になろうとするエンタメ指向もあり、エッセイでそれをやれば「ただのレポ」になってしまう。『49歳、秘湯ひとり旅』はひとり旅する「私」が自身の深いところに触れようとして、ところどころ重たい読み心地。すごく昂ぶる。

事物は精密。名産、土産物には好意的。他への優しさは身についたがじぶんのからだは衰えた。

そうだよなあ 間もなく初老に突入だものな 中年ですらなくなる

人生も大半が過ぎた

露天の景色。視界がひらけた瞬間の、心身の開放感。松本英子の描写は凄い。

私 思ってたの

こんな山奥の果ての むき出しの岩肌に囲まれて

裸を さらしたら

いつもひとりでいるのが好きな私も

内側に潜んでいるであろう荒涼を

ついにまざまざ感じだすんじゃないか――

旅は途中から、孤独というものが欠如した「私」の内奥を目ざしもする。

さみしさとどのように向きあうのか。どきどきしながら読んだ。

(出た…! 粉もんになると出てくる奉行おかずちゃん…!)

広告会社、男子寮のおかずくん(7)【電子限定かきおろし付】 (クロフネコミックス)

オトクニ『広告会社、男子寮のおかずくん』第7巻。完結。

あたたかくって、品がある。大阪弁の小説を読んでいるようで好きだった。

 

おまけの4コマパートにでてくる「たこせん」大阪のそれは「えびせんにたこ焼きをはさんだやつ」で、「想像どおりの味だ〜!」「せやろ」なんて会話が佳い。

エピローグも、しっかりある。

「きみはもう、ここの人間だよ。ここのコーヒーを飲んだだろ」

TVLIFE首都圏版 2021年 8/6 号 [雑誌]

ドラマ『准教授・高槻彰良の推察』、びっくりするくらいおもしろい。

いくつもの挿話を並走させぬシンプルな語りゆえに、原作小説からのコミカライズ、さらにドラマ化という整理、洗練が意味をもつ。佳く刈りこまれている。

「TV LIFE」伊野尾慧の「神宮寺君のことも『かわいいな』『チューぐらいしてもいいかな』とか思ったり」なんて、ただのサービス精神でしょうと警戒していたら、伊野尾演じる高槻と深町尚哉(神宮寺勇太)、なかなかのバディだった。

民俗学をあつかっているのも好みで、話をあつめるほどに遠ざかる怪異。しかしフィクションだから主演助演は怪異を蔵する。

伊野尾慧の声を聴いてるうちにドラマがはじまり、解決する。声にもっていかれるドラマは、久しぶり。

「ナイフを落とすと『男』が現れる スプーンだと『女』が フォークだと『男でも女でもない』だろう」

恐怖ノ黒洋館(字幕版)

ロドリゴ・グディノ監督『恐怖ノ黒洋館』(2012)。82分。原題は「The Last Will and Testament of Rosalind Leigh」――ロザリンド・リーの遺言。

老女ロザリンド・リーのモノローグではじまる。この女性がこの世を去っていることは、すぐにわかる。息子のレオンが、母の空き家にやってくる。

レオンは母と父を亡くした。新興宗教集団自殺で。レオンだけは逃げた。生き延びた。

母の家は宗教観と死生観によってあつめられた奇妙な調度に満ちている。そこでなにかを視る、ということがえがかれはするのだけれど、マイナーな映画ではあるし、ラストまできちんと視聴しての感想もすくないからネタバレをすると「なにも起こらなかった物語」。ロザリンドという死者が独り、屋敷で悔いている話だった。

レオンはこの家にもどってきていないし、怪異に遭遇したり、調度品を売り払ったりもしていない。「そんなことを夢見もしたけれど、おまえは二度ともどってこなかった」という、にがくくるしい死者の一人称。これは親不孝者にはこたえる。観ていてつらい。

いわゆるホラーとしての、男性主人公の探索や、恋人らしき異性の存在もすべて老女の夢想なのだ。それを踏まえて観たほうが、この作品の価値はくっきりと、かがやくのではないか。

「特別だが、レオンに対して好意的でない像」など、ところどころにきらきらしたセリフやイメージが表れるけれど、それらを賞味するのは母の孤独を呑み干したあとのこと。

「服によってダンスがうまく見える、見えないっていうのが結構あって」  平野紫耀

TVLIFE首都圏版 2021年 8/20 号 [雑誌]

『TV LIFE』2021.8.20 平野紫耀。官能的なだけではない。この笑顔。

撮影・干川修、中村功。

 

二年ぶりの『かぐや様』は「本読みの時から監督にたくさん相談しましたし、続編だからといって安心することはなかったです」。

情念がほぐれる。神は居る。

シルク博物館に寄ってから、とりふね舞踏舎『サイ Sai 踊るべき人は踊り、歌うべき人は歌え』。

ずいぶん前に足をはこんだときよりも、いくらか観る眼が養えていた。上演時間90分が、あっという間に経つ。

立ちどまること、うずくまること――身体的な凝縮、緊張、静止のリズム。これを観に来た、と冒頭で胸がいっぱいに。つづくばめんは暗転ののち。舞台中央に、ピンポン玉を銜えた三人の老い。ながいこと無音。これは凄い、と観ていたらなんと音響トラブルで、仕切り直し。

ここで一寸、焦(い)れていたのが落ち着いた。深読みせずに舞踏の透明度へ近づいていく。

社会や、日常を離れた白塗りの肉体。この非日常性はほかのかたちで表現し得ぬ。たとえば過激な性戯というのも日常に属し、社会のなかで覗き見可能なものだから、かんたんに政治利用できる。しがらみのない身体を束の間生むのが舞踏である。

 

主宰、三上賀代。客演には演劇実験室◎万有引力の高田恵篤、森ようこ、三好嘉武人、内山日奈加。

かつては万有を目当てにとりふねを観たりもしたけれど、このたびは万有(『青森県のせむし男』)で気持ちをつくってとりふねに備えた。表現の非言語的な側面がだんだんわかるようになってきた。

外部の出演者には大駱駝艦出身の若林淳も。

 

ピンポン玉のばめんのあとは二人の若い踊り手。内山日奈加と五月女侑希だろうか。ケレンのない可憐。とりふねは衣裳の染めも好い。

転じて、若林淳の衣裳は鮮やか。「伸縮する鉱物」のような踊り。凶凶しくも優しい鬼。

構成・演出・振付は三上宥起夫。磔刑がプロペラになり、タイピングが風になる。

「目のまえのものしか変えられない……。見えていればそこに命を吹きこめる」

グースバンプス 呪われたハロウィーン (字幕版)

『グースバンプス 呪われたハロウィーン』(2018)。1作目の邪悪な腹話術人形スラッピーが再度登場。ハロウィンの夜、スラッピーが町じゅうの仮装人形や道具に生命を与えるという展開は、モンスターの可能性を狭めているけれども。

活躍するのは中学生のソニー(ジェレミー・レイ・テイラー)とサム(カリール・ハリス)。サムの廃品回収アルバイトのなかで鍵のかかった本をみつけ、スラッピーと出会う。周囲のひとには秘密にするようスラッピーに言われもする。ひとつひとつのエピソードには体温がかんじられるが、ソニーたちの物語と、姉のサラ(マディソン・アイズマン)の物語――大学出願のための「恐怖」に関するエッセーを書こうとしているサラの額縁小説である――と、スラッピーの物語のどれもがエッセンスにとどまっている。尺が足りない。しかし愛しい。

前作でニンゲンの父親を得られなかったスラッピーは、今回ニンゲンの母親をもとめる。家族を欲している。それもさいしょはうまくいかなくて、「ガキどもの家族が無理なら、じぶんで家族をつくるしかないな」と辺りに魔法をかけはじめるわけだ。

監督アリ・サンデル。脚本ロブ・リーバー。