大漁、異漁。耀

タイトルは タトゥーのようなもの

「母さんを困らせて、じぶんが困っている」

the座 44号 化粧二題(2000) (the座 電子版)

ことばにできるような、はっきりした理由があるわけではなかった。井上ひさしの『化粧』を観なくてはとおもった。やっていた。紀伊國屋サザンシアターで観た。

『化粧二題』。「化粧」という一人芝居を、有森也実内野聖陽がそれぞれ演じる。〈合わせ鏡〉の如き、母や子の独白。

休憩なしで1時間35分だから、コンパクトなものだ。

子を捨てた母、母に捨てられた子。どちらも、「いま」は大衆演劇の座長である。舞台は幕開き前の楽屋。座員たちも、鏡台も存在していない。いないにんげんをあいてに会話を繰りひろげるのももちろん大変だけれども、観客の想像力に委ねることもできる。凄いのは、おおきな鏡台なしに舞台用のメイクを仕上げていくところ。戯曲で読んでもおどろくし、生で観ればゾクゾクする。現実と虚構を行き来する劇的なダイナミズムが、実験的手法でなく、しっかりと物語におさまっていて、そこも魅力だ。

舞台上の物語が解体されることはないので、座長の五月洋子(有森也実)、市川辰三(内野聖陽)の語る自分史や培われた持論の虚実に観客の眼が留まる。たんじゅんな狂気や良識とはちがった人物がいるのだ。

女座長の一人芝居、単体としての『化粧』(二幕)は戯曲で読めるが、さいしょのト書きに〈彼女自身が信じているところによると、彼女は、大衆劇団「五月(さつき)座」の女座長五月洋子、四十六歳〉と、狂気は決定づけられている。その顕在化と共に化粧もおかしくなっていって、幕。

その残酷さも愛しいけれど、〈自己発見〉として書き改められたのが『化粧二題』。『the座 44号 化粧二題(2000) (the座 電子版)』にこうある。

作者の頭の片隅に住みついている批評家が、次のように厳しく難詰するのも常でした。

「貴様は、女座長の自己発見の瞬間を書こうとしたのではなかったか。二幕劇にするために、女座長を狂女にした途端、自己発見という主題は消えてしまったのではないか」

 

     井上ひさし「前口上」

楽屋で寝ている女座長。はだけた浴衣、有森也実の太ももから『化粧二題』ははじまった。

にんげんの色っぽさ。そうではあるがキリキリしたところ。

狂気はなくなった。しかしある種の閉塞感がのこる。劇場にながれる歌謡曲、そとの工事やクルマの音。たいていのひとの生活はこのようなものだろう。いくらかのノイズと、疎外されたような、それでいて全能感ある日々。

おもうようにはならないし、責めたぶんだけ責められる。ひとびとはじゅうぶんにくるしい。

だから〈自己発見〉だし〈合わせ鏡〉なのだ。論理で観客を追い詰めない。俳優の喜怒哀楽に近づいてもらう。そしてその一人物が前へと進むさまに、魅入らせる。

有森也実はなまなましくて、好かった。

内野聖陽の良さはくっきりとカリカチュアした演技法。それで声や顔の良さが際立つ。戯画化には弱点もあって、いつでも笑いが怒ってしまう。なかなかシリアスにもっていけないと観ていたけれど、誇張されたキャラクターとして市川辰三を演ったから、ラストの母恋い、男性的な甘えが綺麗にでたのだろう。

後味の良い舞台だった。

〈トリックのセオリーは 既に出尽くしている 手品業界と同じで 後は「応用」と「新素材待ち」だ〉

マイホームヒーロー(7) (ヤンマガKCスペシャル)

『マイホームヒーロー』との出会いは7巻の表紙。きれいだなー、かっこいいなーとおもって読みはじめた。

6巻までの表紙はおじさん(主人公)で、だから手に取る機会もなかった。

マイホームヒーロー(1) (ヤングマガジンコミックス)

山川直輝・原作、朝基まさし・漫画の『マイホームヒーロー(1) (ヤングマガジンコミックス)』。

鳥栖哲雄 47歳

おもちゃメーカーの営業職を

やっている

 

趣味は推理小説

読むことと書くこと

ネットの小説投稿サイトに

10年前から投稿しており

計50本の作品は平均100件

近い閲覧数を記録している

 

まぁ評価は中の中だ

マチュアの人生。娘と妻。家族がいて幸福だ。ところが「ちょっと探偵ごっこをやった」ために殺人を犯すこととなる。あいては半グレ組織の一員だ。たちまち嗅ぎつけられてしまう。

逃げなければならないし、家族を守らないといけない。追われる状況が物語を疾走させる。

 

現実世界に酷似した舞台設定であれば、書き手の人生経験がモノを言うだろう。若者に書けるリアルは青春一つきり。それは永遠や瞬間に属しているので、なかなか物語にならない。

しかし若者の、なにもかも持て余した時季は佳い。多彩な登場人物たちに囲まれた劇的状態ならば衝動や計算も物語になる。『マイホームヒーロー』はエッセイ的青春でなく、血の匂いのする物語があちこちから湧き出でる。

どんな人物もドラマを抱えているものだ。だから衝突する。喧嘩になる。その当たり前を手際良く描いて快い。

僕がこれまで書いてきた

50作のミステリーに

出てくる殺人犯たちは‥

 

一体どんな気持ちで

いたんだろうな‥‥?

 

一度も‥‥

考えたことがなかった‥

黒白(こくびゃく)。加わるのは赤。

舞台『黒白珠(こくびゃくじゅ)』観る。シアターコクーン

チラシの「あらすじ」を読むかぎりでは大江健三郎中上健次えがく第一次産業の男の野心や精力、恥辱に失墜といったものを想起したが、そうではなかった。時代設定は1990年代、佐世保の真珠をあつかう男。〈大地は知人から「真珠の養殖業から手を引くので会社を買い取ってくれないか」という話を持ち掛けられていた。バブル崩壊後、景気は回復していない時節だったが、養殖から販売までの一貫経営の夢を抱き“生涯最後の大博打”とその話に乗る。しかしその年の赤潮被害で目論見は大きく外れ、会社は倒産の危機を迎える……〉(あらすじ)

“産めよ、増えよ、地に満てよ”というかたちで、野心は神話的繁殖と容易に結びつく。そこに若い兄弟が登場すればカインとアベルとなる。パンフレットにはまさにそのことが書かれていた。

〈今回ご覧いただく舞台は、プロデューサーから「長崎を舞台に『エデンの東』を書いてみませんか?」と言われて始まったものでした〉と脚本の青木豪「ごあいさつ」にあって、チラシの「あらすじ」がするりと呑めた。

ところが実際の舞台はこのあらすじと異なる。家族や純愛に焦点を当て、ビジネス面を大幅に削った。だからこそひとつの仕事をつづけられない長男・勇(松下優也)のだらしのない不器用さや、東京にでて進学、就職活動と見たところ順風満帆な双子の弟・光(平間壮一)の働くこととの向きあいかたがくっきりと浮かんでもくる。

みごとな脚本だとおもった。休憩を入れて2時間30分に収まる舞台で『エデンの東』は無理だろう。プロデューサーの希望を容れつつ物語をスリムにする手腕。俳優たちへの信頼もあってのことだ。

河原雅彦の演出もそれに適っていた。役割をきれいに分担させている。松下優也と平間壮一は感情のままにうごく。そのうえで、平間のあたえられた光役のほうがふくざつで大変だったろうとかんじたけれど。村井國夫、風間杜夫には《後悔》と、それでも生きる《つよさ》を。コミックリリーフに、フランス料理店「ラ・メール」の店主を演る平田敦子、軽妙な占い師・藪木の植本純米。

 

勇と光の父である大地を演じた風間杜夫が凄い。いま、風間杜夫を観ることの仕合せ。なにもなさそうで、なにかある。ある瞬間にいきなり辷りでてくる心の抽斗、というのは若き日の『蒲田行進曲』からあった資質だけれども、日常生活に長けた平平凡凡たる中年男にもそんな哀しみがあるとおしえてくれる。

村井國夫演じる須崎のしたたかさ。純子(高橋惠子)の孤独。

勇のガールフレンドに清水くるみ。須崎のホームを手伝う沙耶に青谷優衣

 

松下優也は真っ直ぐを演じて、かしこかった。

パンフレットには〈“馬鹿”ということに話を戻すと、たとえば上司や先輩に怒られても言い返さず、でも自分のやり方は曲げない人っているじゃないですか。なにも言わないから「なんなんだ、こいつ?」と馬鹿みたいに思われがちだけど、本人は理由があるから信念を曲げないんだと思う。勇もそういう人なんだろうし、頑固なんだと思います〉

〈このお芝居には集中して聞いていただきたい部分が結構あるんです。そこがきちんと伝わるように頑張りますので、気持ちを途切れさせることなくご覧いただけたらうれしいです〉と。

 

サスペンスだから、ストーリーに踏みこむ部分は避けるが、とても印象にのこった台詞。大地(風間杜夫)の述懐。

暗くなったら負け。

おとこだけの所帯、生活、就労のもつ重苦しさをやり過ごすための方途だ。男子アイドルのキラキラが美しいのはこの《暗くなったら、負け》を判っているためだろうと、やや逸脱のような、解きはなたれた気持ちで劇場をでた。

〈どんなに努力しても、差別化されていないものは、お客さまから支持されず、競争に勝つことはできません〉

「ホットケーキの神さまたち」に学ぶビジネスで成功する10のヒント

〈Part1では、私が実際に訪れたお気に入りのホットケーキの名店を紹介しました。気が向いたら、ぜひお近くのお店を訪ねてみてください。

たんなるガイドブックであれば、それでおしまいなのですが、そこで終わらないのがこの本の変なところです〉

遠藤功『「ホットケーキの神さまたち」に学ぶビジネスで成功する10のヒント』。「手づくりのホットケーキを供する個人経営のお店は、首都圏にせいぜい40店舗ほど」という。ワードをかさねていくごとに絞り込みされるかたちの文章。ここで紹介されるのは東京、神奈川、関西あわせて31店。ほぼ紹介されているといってもよい。

〈──ホットケーキという一見ありふれた食べ物でも、個性を生み出すことができる。

私にとっては衝撃的な発見でした〉

それぞれの店からストーリーを引きだす。定番の店からはじまって、スイーツずきに愛される店、サブカル的魅力に溢れた店と、並びが凄く、夢中になった。

「美味しい」にしても「美しい」にしても、「そこそこ美味しい」「そこそこ美しい」では、やがてお客さまは、ほかに逃げてしまいます。

成功のヒントは美しさばかりでないけれど、美しさについて語られているのが、好かった。〈「美しい」は「商品価値」の一部であると同時に、「経験価値」にもなりえます〉

 

けったいな好著である。そのなかの、美しさといくつかのストーリーにやられて読了。

〈激しい愛は、理性のカケラも残さずに疾走する〉  『マクベス』

シェイクスピア 愛の言葉

「はじめに」と「おわりに」が率直だと嬉しい。まちがいなく心にのこる読書となる。

小川絵梨子『シェイクスピア 愛の言葉』。対訳の、引用集だから「はじめに」「おわりに」を紹介すると魅力のすべてをならべてしまうようなものだけれども、それくらいで褪せるわけもない。

〈今回の『シェイクスピア 愛の言葉』の作業に当たり、彼の作品に改めて触れました。彼の作品を通して読むなかで、これまで学校や仕事で携わった時よりも、作品を素直に受け止め、楽しみ、考えることができたように思います。以前は、もっと何かを感じなければ、何かをわからなければ、と気負って作品に触れていたのかもしれません〉(はじめに)

〈直訳、意訳、という言葉があるように、翻訳には何種類もあります。基本的に翻訳は言葉を訳すものだけではなく、その言葉の意図や背景となる文化、また語り手の人様なども訳し、受取手に渡す必要があるでしょう。ですが、何を目的に、誰を対象にして訳すかによって、原文からどの要素を選択するかは変わってきます。ふだん私は舞台の台本を翻訳することが多く、上演台本の翻訳の際は、翻訳の受け取り手の代表格である俳優たちの存在を想起しながら作業をしています〉(おわりに)

 

愛に見いだすもの、もとめるものはさまざま。たとえば。

ああ

好きな人に会いに行く道は、学校帰りの生徒の道。

好きな人と別れて帰る道は、学校に向かう生徒の道。

 

    『ロミオとジュリエット

 

君も恋愛中なんだな。

よかった、いい恥かき仲間ができて!

    『テンペスト

 

「でも」は嫌い。

君のことは好きだ、でも─

気持ちはうれしい、でも─

一緒にいたい、でも─

「でも」なんて大嫌い。

「でも」はまるで、朝、死刑執行を伝えに来る看守の足音。

 

    『アンソニークレオパトラ

 

どんなに清楚で純粋であろうとも、

女である限り、世間の中傷は逃れようがない。

 

    『ハムレット

「あの子は、おしまいの気分が好きだった」

少年王者舘『1001』観る。作・演出、天野天街

新国立劇場・演劇芸術監督となった小川絵梨子が招聘した。1978年生まれの小川絵梨子が、1960年に生まれ、1982年に少年王者舘を旗揚げした天野天街を呼びこみ、これまでとはちがった客層に触れさせる……。

 

『1001(いち・ぜろ・ぜろ・いち)』は、タイトルに先ず『千夜一夜物語』を、さらには澄んだ無限の郷愁が稲垣足穂一千一秒物語』をおもう。いくつものばめん。ことばあそび。

さいしょの印象的な台詞は「手も足も、散り散りになっても」。すこしずつ状況を変えながらばめんを反復させるので、台詞もこまかな調整がほどこされて「手も足も、バラバラになっても」と。こちらのほうが具体的で尋常な、現代に通ずる日本語だ。

「バラバラ」と「散り散り」がそれぞれべつのことばを引きずりだすために使い分けられるのだけど、事物を観念へとずらす神話のような美化作用もつ「生命」の「散り散り」は、不穏であり悲痛だった。『1001』がえがく少年(≒幼年≒青年)の夏の日は《戦争》だった。

劇中──少年王者舘らしくもなく──反戦のメッセージがつよくなる。しかしそれは「反日」が「半日(…半分、日常)」と台詞で言い換えられたのと同様、「半分、戦争」という認識の提示だったろう。だからこそ、つい声がおおきくなったのだろうし、物故者たちを招くことともなった。三島由紀夫寺山修司、松本雄吉などの。

「英霊」や「祖国」は普通名詞のようでいて、文学的にはミシマやテラヤマの色が濃いことばだ。天野天街はせかいをふんわりとかたちづくるべくそうとう腐心しているだろうから、それらをけっして深追いしない。なにかが記述されているようで、観客のあたまのなかにしかないという寸法。

はっきりと二進法を謳ってもいる。「ある」と「ない」。「ある」ようで「ない」。「ない」かもしれないが「ある」。

本(…書物)の本分は見えぬが花。

出征が、家出や冒険とかさなる。時間を行き来する。やりなおすこともできるが、それでもぜんぶ喪失へとつながっていくのだろう。

 

死者の物語だった。いち(0)(夕沈)、一郎(1)(池田遼)、零(現人)(井村昂)、ゼロ(銀河)寺十吾)にその自覚はない。欲動の如きものだけはあるから、冒頭で一郎メフィストフェレスの如き山ン本(Alah)(月宵水)にねがいごとを言ってごらんとつけこまれる。役名のほとんどはプログラムに載っているキャスト表で確認するのみだが、この山ン本(さんもと)、どうしたって稲垣足穂「山ン本五郎左衛門只今退散仕る」を連想させる。

ランプの精として神ン野(jinn)(珠水)が登場するが、魔法ではなく「阿呆」のランプ。もっと魔神らしい面貌でなくてはと、賑賑しい描写をされる辺りは『古事記』。

 

『1001』は、やわらかかった。1は直線、0は円と見ることもできるが、線を引いて、対立する、乗り越えることをえらばずに、ただただつなげて、ふえていった。そのことにおどろいた。台詞としては「次回はきみと友だちになれるといいな」とか「まだ細胞分裂をする気があるのか、お前?」とか。細胞は、円い。

 

科白されたことばあそびを丹念に辿れば台本を復元できそうだ。どんなことを言っていただろう? 「なんて言っているのかなあ?」とあいてをふしぎがるばめんもあった。ヒラメだったかな。カレイだったかな。ラクダもバクもでてきたな。砂漠だもの。海の底だったのだろうか。夜は。

「最先端のトレンドが集まるだけでなく、日本の伝統文化も体感できることが東京の魅力ですよね」  京本大我

東京ウォーカー2019年6月号

平野紫耀の『東京ウォーカー2019年4月号』、Hey! Say! JUMPの『東京ウォーカー2019年5月号』と、つづけて買ったら習慣化した。なんの前情報がなくても、コンビニで表紙をチラ見するようになる。京本大我の、新連載。「東京和奏」。

おっとりした素直さ。ガツガツしていない。伊野尾慧のような化けかたをするかもしれない。

僕は金髪で色白だし、最近は舞台で西洋の貴公子っぽい衣装を着ることが多かったのですが、心は日本男児なのです(笑)。

そう、見目と心は分かれていて構わない。そこを一致させようとするセクシュアリティもあるが、あんまり拘るとタコツボだ。

東京ウォーカー』は良くも悪くも毒のない雑誌で、どんなおとこの子やおんなの子が泊まりに来ても、取っ掛かりがあったりする。

「この、けみおってやつ、このあいだゲイだってカミングアウトしてた」とか、

「谷口菜津子のマンガ、昔っから好きなんですよ。へー、本になってるんですね」とか。

しょうなんだあ、べんきょうににゃるにゃあ、なんてかれらにうなずきつつ、WEBで無料で摂取する現状を肌でかんじたり。