大漁、異漁。耀

タイトルは タトゥーのようなもの

「悲しみは、にんげんの自由をうばいます。関節炎よりも、もっと」

ウィンチェスターハウス アメリカで最も呪われた屋敷(字幕版)

「脇道に反れるのも、手品もなし。薬物もなしです」

 

1906年を舞台にした『ウィンチェスターハウス アメリカで最も呪われた屋敷』(2018)。20世紀初頭のコスチュームプレイということもあってか、画や演技に保守的なところがある。現在は観光スポットのウィンチェスター・ミステリー・ハウスが題材だから、あまり酷い展開にもできない。それでホラーとしては大人しいのだけれど、家族の物語としてなかなか佳い。『エクソシスト』や『シャイニング』を連想するのもファミリーロマンス濃度のためか。

風と共に去りぬ』をなんとなく嗅ぎとることもできて100分映画というのは、わるくない。

屋敷の主人にヘレン・ミレン。ウィンチェスター銃で財を成したウィリアム氏の未亡人である。早くに娘と夫を亡くしている。銃の犠牲者となった霊を呼びこむために昼夜を分かたず増改築をつづけている。かれらのいたところを再現し、対話して、怒りや悲しみから解き放ってやるのだという。「かれらが安らかになると部屋を壊し、つぎをつくるの」

分析可能な狂気だから、物語はウェルメイドなものとなる。精神科医にはジェイソン・クラーク。この俳優をさいしょに認識したのは『華麗なるギャツビー』だ。

 

ヘレン・ミレン演じるサラ・ウィンチェスターが精神科医相手に初手からカマしてくるタイプで、理知的でもあり、安心できる。周囲のにんげんは皆どこか奇怪である。精神科医のエリックは結びつきをつよめていく。

監督・脚本はマイケル・スピエリッグピーター・スピエリッグ

「『劇団を売らなきゃいけない』みたいなことを言い訳しながら、ホントはじぶんが売れたかったんだろうし」  三宅裕司

『達人達』、三宅裕司とレキシ。ナイツとハンバート ハンバート回から。

 

「劇団つくって。劇団だけじゃ食っていけない。みんなが食っていけるには、だれかが売れなきゃいけない、よし、じゃ絶対売れてやろうってことで、どんどん売りこんで、で、やっと仕事が来るようになって。それがどんどん軌道に乗って、お客さんどんどん増えて。舞台でね。それで当然『三宅裕司』がどんどんお仕事をもらえるようになって。……とても断れないですよ。どんどん劇団がおろそかになって。だから、劇団の公演がつらくなるわけですよ」と三宅裕司

「劇団員に不満が募ってくる。それは当然わかるし。そのストレスが溜まってくる。でも仕事はある。やんなきゃいけない。くああああって、なってね」

 

だれかのファンであるというのは、好意をもって眺めていること。三宅裕司はいつだって好調なんだとおもっていた。しかし世代交代はあった。テレビの仕事が減っていた。中年期の三宅裕司はあがいていた。

入院したり、舞台に軸足を移したりというなかで、売れっ子でなくなることとの折り合いをつけていったらしかった。

その辺りを淡々と語る三宅裕司が、いかにも三宅裕司で良かった。

「フリがあって、オトす笑い」。テレビ的ではない。「逆行」「退行」というふうに誤解されるのは怖くないかとレキシが聞いていておもしろかった。

だが舞台には魔力がある。観客にも演者にも訪れるおそろしいほどの一体感だ。

もちろん、それに酔っているだけでは場をコントロールできない。

喜劇っていうのは、七割、芝居に入り込んで、あとの三割は俯瞰して見てなきゃいけない。ていうのは、何が起こっても芝居を停められないし、コメディだからすべて笑いに持っていけば、何とか乗り越えられるわけ。台詞忘れようが、間違えようがね。出トチリしようが。

「アドリブで言ったようにみせてるところもいっぱいあるわけだから」

三宅裕司はしたたかである。だから言う。 

「音楽をやってるひとっていうのは、むかしからホントにおもってたんですけど、ものすごくピュアなんですよね、心がね」

 

レキシは《飽きる》ことを自身の問題として抱えていたようだったけれども、舞台というのは繰りかえしの世界。それはナイツ×ハンバート ハンバート回からも伺えた。

ナイツ塙。

「『ウナギのタレ』ていう。僕ら呼んで。漫才言ってんですけど。ずうっと、その。おなじかたちのやつ、やるときも、やっぱりこう、ウナギのタレも。タレ、新しく変えるじゃないですか。ずうっとおなじタレじゃないですか。そういうかんじでやってますよね。ちょっと間を変えたりとか。言い方を変えたり。ちょっとこう、ちがうボケを、この『タレ』のなかに入れて。結局おなじ『タレ』ですけど。あんまり気づかないかもしれない。こっちは。こっちはやっぱり継ぎ足し継ぎ足しで。やっぱり。新しいことをやんないと、やっぱりこう、腐っちゃう」

おなじようでないといけないが、おなじではいけない。新鮮で、わくわくできる状態を保つ。

漫才の舞台を浅草にもとめたこともその一つだろう。

ネタ作りも、膠着するようなやりかたにしない。二人で相談して作っていては、継続はむずかしい。一人のほうが良い。

「圧倒的に大量に作れますね。そのほうが。はい。だから、みんな月に一回のライブがだいたい芸人のペースとしてあるんですよ。若手芸人。その月一回の事務所ライブで成績が良かったら、次ステップアップしていく。みんな若手芸人と飲み行くと『来月のネタ、ちょっといまかんがえてんすよ』みたいな。で、コンビの相方と話して、一本作ってくんですけど。やっぱり芸人になってですね、一ヶ月に一本のネタのペースでやっていこうということ自体が、まずプロとして失格なんです。ほぼ、月に十本でも二十本でも作るぐらいのペースじゃないと、やっぱり無理だと思うんです。そのときにいちいち二人で会って、ゼロとゼロで『ここどうしようか』て言って会って。会いますよね。そうすると作れないですよ。ゼロ、ゼロだから」

そこそこのものを多作する、という助言はいくらもあるが、塙は「速いし、独創的になる」とオリジナリティの発生も説いていた。

 

「聞かせたいボケって、意外に張らないボケだったりするんですよ」にしみじみする。「さらっと言うからおもしろいボケ」

おおきい声ばかりが正解ではない。

(天使が見たもの)

ゴーストホーム・アローン(字幕版)

2019年の90分映画。邦題は『ゴーストホーム・アローン』。 少年のように繊細なタイトルで、半角やナカグロの意味なんてことをかんがえてしまう。

暗闇が怖いおとこの子、ということ。そして外からの侵入者はいない。「ゴースト・ストーリー」でも『ホーム・アローン』でもない低予算の一夜の物語として、とりあえず中盤までは楽しめる。姉弟は血がつながっていない。再婚家庭。姉は男親の、弟は女親の血縁で。おとこの子(イーライ)の友人であるサムの母は酒びたりだったり。姉のボーイフレンドは、おとこの子の格闘ゲームにつき合うようなホモソーシャルの優しさがあったり。どこにでもあるような、素材のならべかたはじつに真っ当で、これが家族の形成の映画になればそこそこの出来になったのではないか。

原題は「MSTK(My Soul to Keep)」。

序盤でおんなの子(ヒラリー)がお祈りを口にする。〈Now I lay me down to sleep,
I Pray the Lord my soul to keep;
And if I die before I wake,
I pray the Lord my soul to take.〉

マザー・グースだ。口ずさむヒラリーは敬虔らしく、イーライよりもファナティックな匂いがする。それが暴発することはないのだけれど、何といってもマザー・グースだから、意味不明かつ凶凶しくて、映画のラストもほんとうは予期できなければいけなかったのだ。

2時間映画だったらこの終わりかたはないだろう。90分映画ゆえに許される奇手。おどろいた。これはこれでありかな。監督アジマル・ザヒール・アフマド。

 

好意的に観るなら、イヤな監禁系。実録風。そんなものを連想する。

あるいは映画『サイレントヒル』だろうか。「怪物」が実在か非実在なのかしっかり検討しなくてはならないが……。

 

“バーグリーの怪物”として主人公イーライが恐れているもの。それをヒラリーが新聞記事からみつけてくる。こういう、丁寧にベタなところぜんぶ「ホラー」でなく「ホラーのパロディ」なんだと観たほうが、楽しめる。

「仲良し一発屋芸人の3人」

『ボクらの時代』はリモート収録で山田ルイ53世(45)、コウメ太夫(48)、スギちゃん(46)。山田が「(リモート収録の)テストケース」、スギちゃん「どん底の、番組的にも危機的状況だから呼ばれたんだよ」。

それぞれの過ごしかた。2歳の子がいるスギちゃんは、時間に余裕ができて、洗ってあるネギではなく泥つきのネギ、皿洗いもいつもより苦もなく手伝える、といった具合に生活を楽しんでいる。

小学2年の長女と妹(10ヶ月)がいる山田ルイ53世は、夫婦で子の勉強をみる。すこしコント風にして子をノセつつ。髭男爵であることは“かくしごと”だが、バレてきている。

 

売れなくなってからの“自粛”が長引いているいま。テレビの世界の交遊録に話題は移り、スギちゃんが「テレビでてるひとと会うと緊張する。こっちから連絡もできないし、その勇気がない」と。

 

コウメ太夫有田哲平に言われた話。

「おまえ最近、意味わかんないネタばっかりやってるじゃん。それずっと続けろよな。絶対ブレちゃ駄目だからな」

ジュリーとゼリー

カタクリ家の幸福 [DVD]

韓国映画クワイエット・ファミリー』のリメイク、『カタクリ家の幸福』(2002)。監督、三池崇史。作品内容が暴力的でもあるけれど、撮りかたもまた乱暴で、しかし手堅い。

三池映画は出来が良くないときもままある。それでいて、キャスティングはつねに魅力的。今作だと丹波哲郎武田真治遠藤憲一がでてきてそれぞれに思いを馳せる。

クレイアニメではじまる、ミュージカル映画のパロディ。冒頭で「合わないな」とかんじて観ないのも正解あ、「合わないから」観てみるのも正解。話はどんどん転がる。沢田研二忌野清志郎の歌と踊りでモトはとれる。音楽は遠藤浩二馬飼野康二。グロテスクなばめんが多いのに、イーカゲンでハッピーになれる。

 

娘「お父さんてさ、お母さんのつくったものだったら毒でも食べちゃうって感じだよね」

母「ころすのかんたん」

 

松坂慶子沢田研二で演る夫婦が好い。若いころよりは肥った沢田研二が仕事のできない愛妻家という。脱サラしてはじめたペンション。客が来ない。たまに泊まったとおもうと翌朝しんでいる。さまざまな凶事の末にイーカゲンなハッピーエンドを迎えるのだが、これが観ているオトナに快い。

日活ヤクザバンパイア

極道大戦争

極道大戦争』(2015)。主演市原隼人。監督三池崇史。小ネタのオンパレードでたとえば出番の多いでんでんがケーシー高峰みたいなホワイトボードレクチャーするとか、三池崇史セルフパロディがいろいろあるとか(タイトルも中身も『妖怪戦争』なのだし)、映画『ミュージアム』に先行するかたちでカエル男が登場するとかおかしなことはいっぱいあるけど、開始30分で明かされることは記述してもいいのだろう。

「ヤクザバンパイア」という概念がでてくる。これを継承するのが市原隼人だ。

女性でキャスティングされているのは高島礼子成海璃子。男性ではリリー・フランキー、ヤヤン・ルヒアンなど。

助演に青柳翔、渋川清彦。たまらん。渋川清彦はワルそうな、ヨワそうな、のらくらしたところが味だろう。

 

バンパイア映画のロマンスというより、ゾンビ映画の集団性。逆境で活性化するヤクザ。

ヴァンパイアハンターの一人、テイ龍進がさっぱりしたアジア系の顔で謎めいて色っぽかった。

「かわいい」のこと

夢中さ、きみに。 (ビームコミックス)

遅ればせながら、和山やま『夢中さ、きみに。』。書影はずいぶんまえから気にしていたが「手塚治虫文化賞(短編賞)とりましたよ! 試し読みもできますよ!」と年下の友人から推されるかたちで、やっと。

単行本は林くんが登場する4篇と、二階堂くんがでてくる4篇。1篇ずつ試し読みできるのは、送りだす側の自信だろう。

 

ガロとか、ヤングマガジンとか、わたせせいぞうを連想する。設定、掘り下げに無理がない。

リアリティと、ふわっとしたところと、フィクションによってどうにか辿り着けるような、得がたい幸福。

 

「うしろの二階堂」に、パロディの技巧を見る。タイトルは言うまでもなく『うしろの百太郎』。

二階堂くんが明らかに伊藤潤二キャラで、「二階堂…伊藤潤二の漫画に出てたよね?」とセリフされる。出どころをハッキリさせて、パロディ押しをさっさと終わらせる。やりとりはつづき二階堂くん「…別に」。対する目高くん心のうちで「沢尻エリカかよ……」。序盤にパロディ詰めこんだ。あとは本然の描写、物語に還るだけ。

 

和山やまは、起承転結の「承」が巧い。「転」と呼んでもいいようなおどろきがある。

そして「転」で登場人物がしっかり行動する。「結」は、さらりと。

 

ちんちんがでてこないのもいい。ちんちんなんて、ないでしょ。男子に。