大漁、異漁。耀

タイトルは タトゥーのようなもの

「残る者も 一つ所におられん者もおる それだけのこっちゃ」

神田ごくら町職人ばなし 〈一〉 (トーチコミックス)

坂上暁仁『神田ごくら町職人ばなし』。ナレーションや説明台詞に頼らず、絵によって見せる。第1巻の前半は、「コミック乱」掲載の一話完結型。ミニ番組のくっきりとした切れ味で「桶職人」「刀鍛冶」「紺屋」「畳刺し」。畳刺し以外の職人は女性だ。ページ数の幅もあるけど、「紺屋」に描かれた人物の迷いと解決が短編らしくて小気味好い。「畳刺し」は吉原の畳の張り替え、花魁と若い男の職人という取り合わせが落語のようなユーモアを生む。

後半は「トーチweb」に移籍して数話かけてのドラマとなり、熱くてしかも俯瞰のできる遠大な魅力が出てくる。「左官」。隠居が語りはじめるのは百年前の左官のこと。

アトリエ乾電池の充実。

劇団東京乾電池『牛山ホテル』観る。作・岸田國士、演出・柄本明

どえらいものを観た。緞帳におおきく「仏領印度支那のある港 九月の末 雨期に入らうとする前」とさいしょのト書が縫いつけてある。リーフレットにはこれまたおおきく岸田國士の言葉が印刷されていて、

〈『この作品を書いたのは、昭和三年(一九二八年)の暮れで、私が仏領印度支那に渡つたのが、それより十年前である。

私はほとんど無一文でフランス渡航を企て、幸ひ香港で臨時の職を得てこの未知の土地へひとまづ落ちつくことができた。滞在わづかに三ヶ月であつたけれども、この東洋の植民地における日本人の生活の印象は、私の脳裡に深く刻みつけられた。孤独な放浪の旅と、陰鬱な南方の季節と、民族の運命に対する止みがたき不安と、これらが一体となつて、この作品の基調を成してゐるものと思はれる。』〉

と、開演前からじゅうぶんに演出されている。異国の匂い、だが幕が開けば夕暮れ、三人のしどけない女。襦袢に腰巻、あるいは浴衣としっかり日本をもちこんだ妾たちの色気が凄い。

主演のさとに佐々木春香。妾の一人やすには太田順子。ホテルの養女とみに鈴木寛奈。

舞台装置、小道具もリアリズムでしっかりしている。場面が五場あることを懸念していたが、事前に上演中緞帳が下りることを聞いて、さらに期待が高まる。小手先の、抽象的な演出はしないらしい。

印度支那で長く働く男たちは総じて日に灼けている。日本から赴任してきたばかりの三谷(土居正明)は色が白い。リアルである。

かと思うと、酔った水夫の顔は喜劇的に真赤に塗られ――これは〈仏蘭西の水夫〉を日本人が演るためでもある――硬軟織り交ぜた演出がみごとなのだ。

〈別居せる真壁の妻〉〈猶太系の仏国女、かなり贅沢ななりをしている〉ロオラ(竹内芳織)も俳優が日本人であることが目立たぬように暗がりに立つ。

 

舞台美術がきちんとしていて、演出の目が隅々まで届いている。そのうえで俳優たちは基本の声量、滑舌がみごと。関係性に萌えるとういうような副次的な感動でなく、ただただ眼前の舞台に圧倒される。

序盤に登場する写真師・岡(山肩重夫)は、さとに「男の真心」を説く。グッときた。演技が出来ているから、おずおずとした純情というものも、観客にばっちり届く。

しかしそれは妾としてのさとを否定しかねない。

岡  必要な時は、金で縛つて置く。用がなうなれば、金をやるから出てゆけ。これが男の真心たいな? 成程、そのお蔭で、あんたは、五年の年期を三年あまりで済ますことができ、その上嫁入りの支度金まで持つて、お父つつあんの傍へ帰れるて云ふかも知れん。しかし、それがなんたいな? あんたは、ムツシユウ・真壁と、さういふ風に平気で別れられるぢやなかですか。

さと  平気……? どうしてそぎやんこついはるツとな?

さとは真壁(鹿野祥平)と別れてこの地を発つことになっている。それを周りが遠巻きに、ああだこうだと言う恰好だ。

ホテルの女将・牛山よね(西村喜代子)。真壁の下で働く鵜瀞(西本竜樹)、島内(岡森健太)。金田洋行の主・金田(杉山惠一)。納富(綾田俊樹)。三谷夫人(重村真智子)。

三谷夫人の突発的な笑い、階段を駆け下りてくる真壁といった盤面を引っくり返す劇的振る舞いにも興奮した。

出演者はほかに工藤和馬、本田彰秀、鈴木美紀、矢戸一平、前田亮輔。

レオとルミとダーウィンと。バズとジェイとニースと。

ダーウィン・ヤング 悪の起源』(演出・末満健一)観る。主演はWキャスト。大東立樹のほうを。

九つに階級分けされた街。60年前の暴動、あるいは革命がいまも話題になる。舞台は、200年続く寄宿学校。学校のそとでは、謎の死を遂げた少年の30回目の追悼式が行われている。

原作はパク・チリの小説で、ヤングアダルトに分類されるだろう。現在、30年前、そして60年前それぞれに16歳だった者たちの青春が描かれる。題名や、舞台のポスターはおどろおどろしいが、それを超えるきらきらがある。

ダーウィン・ヤング(大東立樹)と友達になるレオ・マーシャルを演じたのは内海啓貴。非常に良かった。大東立樹との相性も好い。おおきく、あっけらかんと男性的なレオは、かんたんに権力を握り得る身体だと自覚しているがゆえに反骨なのだった。

少年としての華がありながらもポジションをみつけられずふわふわとしたダーウィンからぐいぐい、さまざまなものを引きだしていく。ダーウィンの《悪》がヒロインでなくレオに向かうのも、それを容れるようなところがあったから。

大東立樹のダーウィンから受けた印象は《無垢》だ。『小公子』や『星の王子さま』をおもわせる透明性。独りで悪に染まるわけではない。

ダーウィンは、ボーイフレンドにもガールフレンドにも恵まれている。ヒロインのルミ・ハンター(鈴木梨央)は「探偵」として「助手」のダーウィンを引っぱりまわす。

ルミの叔父にあたるジェイ(石井一彰)が30年前、しんだ。そこにのこる不審な点をルミはさぐりつづけている。

 

この物語が連想させる映画は多いけれども(『第9地区』(2010)、『バットマン ビギンズ』(2005)、『華麗なるギャツビー』(2013))、ミュージカルとしての魅力に溢れていて、何度でも観たくなる。作曲パク・チョンフィ。台本と作詞はイ・ヒジュン。

心地の良い飛躍と展開。たとえば石川禅が16歳の少年として革命に身を投じる場面では、上官の信頼を勝ち得て、しかし利用されているだけなのを知り、弑するに到る――この一連がたった数分で描かれる。原作小説が長大であろうと、なかろうと、こういう選択の余地のない局面はいたずらに掘り下げる必要はない。

レオの父バズ・マーシャルが寄宿学校のドキュメンタリーを撮るくだりもスピーディだった。

楽曲は多く、台詞はコンパクト。無駄なく、心情が込められているから一つ一つにグッとくる。

「僕はね、あの女と結婚してもいいと思つてゐるんです。しかし、さうすると、あの女が可哀想ですよ。僕は、半年経たないうちに、あの女を棄ててしまふでせう」

牛山ホテル(五場)

岸田國士「『歳月』前記」という短文には、つぎのようにある。

「牛山ホテル」は昭和三年十二月、中央公論に書いたもので、天草の方言は友人のH君を煩はしてやつと恰好をつけた。
 読みづらいといふ批難をあちこちから受けたが、我慢して読んでくれた人からは、なるほどこれは方言でないといかんだらうと云はれた。
 登場人物にはモデルがありさうで、実は、はつきりしたモデルは一人もない。たゞ、場所だけは印度支那の海防(ハイフオン)といふところにとり、今もなほそこにある筈の「石山旅館」を舞台に借りた。曾遊の地ではあり、さまざまな印象が空想の手がかりになつてゐることはたしかだが、人物の一人一人に、実在の誰彼の面影はさらにないのである。

「作者の言葉(「牛山ホテル」の後に)」では〈この作品が私のほかの作品と違つてゐるところは、ある程度モデルがあるといふことである。もつとはつきり言ふと、私の過去の生活、経験、観察が、直接この作品の中に取り入れられ、登場人物の一人一人に、いくらかづつ実在の人物の面影をしのばせるものがある、といふことである〉と語られており、反対のことを言っているようだけれども、取材というほどのモデルはなかったと判る。殊更な変形、歪曲もなさそうだ。

 

岸田國士『牛山ホテル』。時間をかけて心理をあぶりだす。事件によって物語が推進するということはない。そこがいかにも旧来のリアリティを重んじる「文学」で、安心の読み味なのだ。退屈をかんじるひともいるかもしれない。

舞台は「仏領印度支那のある港」、「九月の末――雨期に入らうとする前」。ヒロイン・さとはこの地で事業に穴をあけた真壁の妾だが、その関係を解消し、日本に帰る船もすでに手配されたところ。日時をずらして真壁もいずれここを発つ。

それなりに困窮を免れてきたさとが日本に帰ることは正しいのか、どうか。そういうサスペンスである。

真壁には〈猶太系の仏国女〉ロオラという妻がいて、『舞姫』の如き愁嘆場はすでにさとから奪われている。真壁は真壁で『ファウスト』のメフィストフェレスや『ピグマリオン』のヒギンズのような誘惑者、教育者たることを望まない非−植民地主義的なインテリだから、さとに対して故郷に帰れとも帰るなとも言えないでいる。

他人をアテにしてもいいが、配偶者や血縁者に義理立てすることもない。そう真壁はかんがえている。

真壁  世の中の奥さんたちみたいに、男の苦労まで背負い込む女になつちやおしまひだ。女は、自分だけで背負ひきれないくらゐの苦労があるんだからな。

〈おれはお前を教育しようと思つたことはないが、お前はなかなか心掛がよかつた。しかし、いろいろ考へてみると、お前をまたお父つつあんの手へ戻すことは、なんだか、あぶないやうな気がするなあ〉

真壁  明日の船で、此の土地を離れるつていふことは、逃れられない運命かどうか。寧ろ、おれといふ人間がゐる為めに、さうなるのではないか。かう考へてみると、おれは、今、お前の運命について、もう一度神に訊ねて見なければならないといふ気がし出した。――おれが神といふのは、お前の本心だ。

 

さと  そぎやな云ふとつても、あん人ん気持から云へば、わしば国に戻したかつだもね。国に戻つたてちや、わしが仕合せになるとは思つとりやせんとなるばつ。そツでんが、やつぱ、わしば国に戻した方が安心すツとたあ。そるが、わしにやわかツとだもね。

やす  そらあ、あんたん、そぎやん思ふだけたい。あん人が安心しうが安心しみやあが、あとんこたあ、どうだツたツてちよかぢやなツか。あんたんこぎやんしたかて思ふこつば、させてくれしやがすれば……。

あるいは、さとにはじぶんがドラマから切り離されているという気があるのかもしれない。

「君、これは音楽だよ。日常ではないんだ。音楽の中に定価なんて日常用品が入りこんでいいものだろうか」  『ガラスの少尉』

戯曲 唐版 滝の白糸 他二篇 (角川文庫)

唐十郎『唐版 滝の白糸 他二篇』。収められているのは表題作と、「由比正雪」「ガラスの少尉」。

銀メガネ あたしは異化の旅を恐れ気もなく志していたのかもしれない。袋小路に追いつめた者達が、その風情を異口同音にののしった時、あたしは異化のほうきにまたがって、君と一緒に空を飛んでどんなに逃げおおせたかったことか。

 

    「唐版 滝の白糸」

十歳の少年・アリダをさらった銀メガネ。出所し、成長したアリダとゴースト・タウンで再会する。

「情念」を、どのように扱うか。ニンゲンの感情に根を張る「情念」は、明晰な言葉で論理的に語られたところでかんたんには説得されず、澱(おり)としてのこる。蒙昧で、強情な「情念」を置いてきぼりにしないために「詩」が要る。

「美しい人が錯乱するといつも杏(あんず)を思います」とか「こうして俺達は間もなくすべりだすジュウタンを待っているんじゃないか。空飛ぶジュウタンを!」と唐十郎はコトバで視覚を刺激する。今いる場所をズラしにかかる。

アリダの兄と心中未遂した、お甲がアリダに無心する。そのカネを銀メガネが狙う。さらには「クロレラ酵素を乳酸菌で味つけるのに成功した『羊水』」の販路を確保しようとする羊水屋、お甲と巡業する小人プロレスの一団が、アリダたちの「状況」を揺さぶってくる。

滝の白糸は水芸を披露する水商売の人である。その困窮と売血がするするとつながっていき、「復讐」という言葉が浮かびあがる。

情念が増幅し、水芸となって受け手を圧倒する。

 

次いで自由に創られた「由比正雪」。登場するのは柳生十兵衛、金井半兵衛、丸橋忠弥と夜タカ、かごかき、岡っ引。

柳生十兵衛は「剣にとって美とは何か」と悩んでいる。

半兵衛 悩む十兵衛など、俺は嫌いだ。

十兵衛 嫌いで結構。

半兵衛 おまえが悩んだところで歴史が変わるわけじゃあるまいし。

唐十郎の世界には半畳を入れる人物がいる。まともなことを言ってくるのだ。そんなことはわかってる。それでも妄念を抱えて突き進まざるを得ぬ「宿命」の愚かさが愛しい。

十兵衛 半兵衛、世の中は、決して、インサイダー、アウトサイダーと区切れぬことをよくおぼえておけ、俺のように、正道の表玄関に生まれながらも、裏道をゆくものだってこの世にゃいるのだ。

 

正雪 この川面の果てを見たまえ。この暗い沖が明日の江戸さ。大川端のらんちき騒ぎに花の吉原、それがいったい何の証しだと思われる。繁栄と貧困はすぐとなり合わせに坐っているものさ。巷には牢士がさまよい、今日の職、明日の職を求めて町の底はアビ叫喚。日雇い人足さえ浪人者は雇ってくれぬ。あぶれあぶれて江戸にゃ十万の浪人者がひしめきあっているのだ。

島原の乱を見てきたと由比正雪は言う。

正雪 天草一党の全滅は誰でも知ろう。しかし誰も知らぬ事実がある。それは裏切りだ。天草の全滅がわかるや否や死地に追いやられむごたらしく殺されたのは、功あらばとかけつけた浪人部隊よ。わかるか、これが権力の本体だ。これが江戸さ。俺は島原の戦場をかけめぐって何もかも見てきたのだ。あの島原の地獄ヶ原を知っているのはこの俺とからすのほかにいない。

忠弥 きさまは知らぬさ、島原を。

正雪 何といった?!

忠弥 幻想さ。

出自のはっきりしない由比正雪はフィクション向きの人物で、唐十郎ごのみだろう。天草とのつながりというような、由比正雪のデタラメに斬りこみながら己の嘘を半分まぜる。話がねじれる。ねじれて渦となれば物語は、昇りはじめる。

 

「ガラスの少尉」は典型的に唐十郎で、美しい。

ガラス工場で働くミノミのという名の少女は、インドネシアの森深くで眠るガランスでもある。工場の上司は森を探索する隊長だ。真実なる情念をもとめて時空を行き来する。

「立つ生が死として横たわり、横たわる死者が立って私たちをジャングルに案内するのです」と。

隊長 面倒くさい。何もかも面倒くさい。手にとるもの、開ける口、流しこむもの、何もかも面倒くさい。夜は更けて、月も傾こうというのに、ちくしょう、俺ののどの中では、あのお天道さまが燃えている。この悪寒、この悪寒の底で燃えている妙な夏。だれか、俺ののどに雪を降らせてくれ。菊田君、雪だ。南の島に雪だ。

 

少女 さあ、刺してごらん。予測を越えた不可抗力に。おまえに射ちぬかれてただれる胸の傷口にそれを刺し込んでこみあげる真っ赤な不可抗力に止どめをさしてしまえ。36度5分を絶対零度に。リンゴの匂いにまるわるさまざまな幻をただの悪寒に。あなたのためのガランスをミノミに。

「一晩で女性は堕落しますよ」

唐組・第71回公演『透明人間』。紅テント、靴を脱いでの桟敷席。観客ぎっしり。

テント芝居はプロレス観戦に似て、舞台に上がる人物たちに先ず感動する。『透明人間』の初演は1990年だから、しょうゆ顔ソース顔なんて言葉もでてくる。

岸田國士戯曲賞を『少女仮面』で受賞するのが1970年、芥川賞を受賞する小説『佐川君からの手紙』が1983年、鶴屋南北戯曲賞紀伊國屋演劇賞読売文学賞を獲ることになる『泥人魚』の発表が2003年であり、劇作の息はおそろしく長い。その都度、時代を反映している。

 

『透明人間』の登場人物。

田口…夏の保健所員

上田…田口と賭けをした女コロガシ

課長…狂った犬を探している小役人

合田…焼きとり屋の押し入れに住む犬との同居人

辻…時を駈ける調教師

モモ…焼きとり屋の煙に包まれたベロニカ

母親…マサヤを咬んだ男を追っている

床屋…保健所のタイコもち

出前…タヌキの出前先がわからない

歯医者…出張してしまった

白川…愛と孤独の女教師

モモに似た女…モモの人生に潜り込む

四人の客…飲んでいる時と飲んでいない時が分からない常連

マサヤ…女教師白川を支える巷の哲人

唐十郎より下の世代の小劇場ブームのノリとも通ずる悪童の軽快さがあった。マサヤ少年(升田愛)とノイローゼ気味の教師・白川の交歓は、かれらが桜を話題にしたからだろうか、広々として明るくてここがどこかを忘れてしまう。ほかの登場人物たちのようには宿命的でないぶん自由で、喜劇なのだった。

辻を演じた稲荷卓央もコミカルな登場だった。そしてじわじわと叙情と宿業を背負いはじめる。

「親の因果が子に報い」、だ。焼きとり屋のモモ(大鶴美仁音)と絡む現在の辻は亡父とおなじものを視はじめる。軍用犬の時次郎とモモ。モモが狂犬病でない証として、重りをつけたダリアを沼底まで取らせに行かねばならなかったこと。虐げられた全ての犬たち、また女たちはモモなのだ。けれどモモへの情熱は、時空を超えたものでもあるので「モモ」と「モモに似た女」も辻のまえではたやすく入れ替わる。

「透明人間」というのは社会からの「蒸発」であり、ソトから見れば「交換可能」な酷薄のあらわれでもある。若き保健所員・田口(岡田優)はそういう移行に抵抗する。

もともとは上田(全原徳和)の企みで出逢ったモモではあったけれど、辻の幻視に呑まれれば円環から抜けだせぬ。モモにも辻にも田口が必要だった。よじれていない。真っ直ぐである。

 

合田、久保井研。モモに似た女、藤井由紀。課長、友寄有司。マサヤの母、加藤野奈。ほかに重村大介、春田玲緒ら。

「あなたとの、考える日々は、私には限りなく楽しかった。そうして、それを続けたかった」  魚怪先生

扉座『Kappa 〜中島敦の「わが西遊記」より〜』見る。脚本、横内謙介

「夢」や「理想」という遙かで、みずみずしいものへの志向が中島敦にも横内謙介にもある。だからもちろん相性は好い。

横内謙介にとっての「夢」は演劇にあり、舞台をとおして語られるもの。執筆や俳優をめぐる物語だ。ゆえにコロナ禍以後、重たい題材が続いてきた印象だけれど今作はかなりくつろいだ調子ではじまる。岡森諦が「円形脱毛症ですなあ」と科白して可笑しく、扉座の世界に引きこみつつも、終盤は凛々しく崇高な一場となる。あ、こういうタネ明かしをするのか、あ、原作のここをラストにもってくるのかと横内謙介らしさを愉しんだ。

中島敦『わが西遊記』は「悟浄出世」「悟浄歎異」二篇から成る小説である。「悟浄出世」は沙悟浄が「渠(かれ)」と記される三人称、「悟浄歎異」は一人称の「俺」が孫悟空の心身にあこがれ、しかも悟空と三蔵法師の〈男色的〉――と、猪八戒の評する――結びつきを観照するだけの、なかなかにオクテなプラトンホモセクシュアルで、旧制高校・硬派・衆道・お稚児さんなど濃く匂う。

横内謙介は友情をえがく際にエロティシズムをもちこまないので「悟浄歎異」のほうは相当削るだろうとおもった。教養と男色性によって臆病になった悟浄的人物が、中島敦の小説のおもしろさだけど、そして自分とは何かと悟浄が問うてしまうのも若さのためでないとかんがえるけれども、『わが西遊記』から青春のみ抽出するのも方法ではある。

横内謙介にとって「変身」はケレンである。観客の期待があって、それを上回ってくるサービス精神だ。孫悟空猪八戒を叱咤するばめんがある。虎に変身せよと言う。そしてきちんと、春節の獅子舞よろしく二人がかりの虎が現れる。我々はおどろき、満足する。

 

孫悟空に、小川蓮。素直に若く、《火》の如き熱演。沙悟浄は有馬自由。謎多き魚怪先生には岡森諦。

猪八戒、犬飼淳治。三蔵法師、砂田桃子。

三蔵法師は言う。「我らの世界、決してどしゃ降りばかりじゃありませんよ」と。