大漁、異漁。耀

タイトルは タトゥーのようなもの

「若菜 オレ喜ばすのうますぎる お前の言葉ウソがないから」

私の愛したツバメ (H&C Comics ihr HertZシリーズ)

佐藤龍我と高橋恭平! とおもいながら読んだ。BLに、こういう取り乱しかたをしたのは初めて。ジャニーズJr.をかさねるなんて。

肌の匂いと体温。なまなましさがあるのは、省略が効いているせいだろうか。裸を描くのも上手い。

濡れ場はすくない。ノンケが、ゲイと恋をはじめるのだからこのくらいでじゅうぶん。

ジョゼ『私の愛したツバメ』。同時刊行されたもう1冊も読んだ。ならべると、こちらは設定にわかりづらさがのこっていた。「退院オメデトウ!!」とはじまるが、そのおとこの子が病院の、レストランで働いている、というのはややこしい。

レストラン勤務の若菜が出逢うのは、老人の見舞に来ているツバメ。愛人だという。若菜はノンケだし、ツバメはおおきな保護者がいるのだけれども、二人は会うことが楽しい。

 本当に 楽しいんだ オレ

久しぶりに

あなた 以外にも

居場所が できた 

保護者の「博臣さん」はけっこうだいじなことを言う。「飛び立つ時を 見誤ってはいけないよ ツバメ」。

「青二才の傲慢さほど、醜いものはない」

のみとり侍

冒頭で桂文枝オール阪神ジミー大西笑福亭鶴光など芸人わらわら現れて、キャストがにぎやかなだけの映画かとかるく観はじめるが、なかなか、どうして。

映画『のみとり侍』(2018)。原作は小松重男(1931−2017)の短編集『蚤とり侍』。

助平だけでは、のみとりは勤まりやせん。よござんすか。のみとりを呼ぶには、おなごにも勇気が要りやす。そのおなご相手に、居丈高な物言いは、百害あって一利なしです。偉ぶったが最後、おんなたちはプイと横を向いてしまう。

蚤とり屋の主人夫婦に風間杜夫大竹しのぶ。これが佳い。この二人の演技にくつろぐと、ほかの出演者も視えてくる。喜劇部分のみ、悲劇部分のみ担当する俳優もいれば両方にまたがる者もいる。寺島しのぶ豊川悦司前田敦子伊武雅刀松重豊斎藤工ほか。主演は阿部寛

「猫の蚤とり」というのは女性相手のおとこの売春でもあると、設定が明らかになれば自ずと濡れ場も生まれるわけで、原作短編集に収められたいくつかを一本にまとめ上げながら、緩急をつけて飽きさせない。

脚本・監督、鶴橋康夫

〈一人ぬけた二人ぬけた三人ぬけた四人ぬけた五人ぬけた 青空には だれもいなくなっちゃった〉

演劇実験室◎万有引力『狂人教育』観る。万有引力を、ずいぶんながいこと観ていなかった気がする。あるいは多忙といくつかの冷淡な批評のためにわすれてしまっていたのかもしれない。

しかし素晴らしい出来だった。さいきん万有引力を観ているというひとにチケットをとってもらった。そのひとが観ているいまの俳優陣と、かつて観ていた記憶とはだいぶちがっている。サルバトール・タリも亡くなった。あのひともいない、このひともいない。それでも強度は増していた。

戯曲としての『狂人教育』はシンプルなもの。6人の家族それぞれに偏執があり、じつは人形であり、かれらのまわりに人形使いたち。舞台には登場しないかかりつけの医師もいる。その医師が、この家族のなかに1人、キチガイがいると言った。疑心暗鬼。家族は少しずつおかしくなる……。

うそつき うそつき みんなうそつき

葡萄畑を掘りおこし

先祖の肖像画を埋めろ

うそつき うそつき みんなうそつき

壺の中には血がいっぱい

だから咲く花みな赤い

 

 

ミルク ミルク ミルクをおのみ

たくさんのんで大きくおなり

象より大きくなったら

この部屋を出られない

このドアを出られない

だから生涯あたしと一緒

悲しみもよろこびもあたしと一緒

あたしのミルクをのまない猫は…

重層的な演出をほどこされて、美しかった。若手もしっかりそだっていた。

「一度こうしようって決めたら、やらないと気が済まない。それでダメなら、早く次の道を考えたくて」

anan(アンアン) 2018/11/14号 No.2126 [心理テストでわかる、あなたの愛しい男。/平野紫耀]

雑誌で見るとかっこいい。うごくところはかわいらしい。それがジャニーズかなあとおもう。

「プレッシャーを感じている顔でお客さんの前には立てないし」と平野紫耀。大人たちはこのひとの闇を見定めて愛でる。

『アンアン』。平野紫耀「掴みたい、掴めない。」。

「メンバーが言いたくても言えない環境もあるんで、じゃあ自分が言おうっていうだけ。僕なんてまだまだ口だけの奴ですけど、いつか言葉に中身が追いつけるようになれたらとは思います」

投げやりなところがある。

「もちろん責任は感じるし、しっかりしなきゃとは考えるけれど、同時に、どうでもいいやとも思っている」

現場にいるあいだは、穴をあけないこと。それがプロであり、神経質にならずに70〜80点をだせばいいとは良く言われるが、そこにときどき華のある者が現れる。平野紫耀は、そういう稀少なタイプ。

〈人はただ初一念を忘れるなと申し上げとうござります〉  大石内蔵助

儚 市川染五郎

写真・操上和美、文・新井敏記。八代目 市川染五郎『儚』。

舞台に立つと、自分の声がよくわかります。

声変わりは辛かった。

父からは、「自分も他の役者さんも

通ってきた道、病気ではないので

安心して演(や)りなさい」と言われました。

ものごころついてからいままでの、ありようというか、ずっとずっとあるいていった先にある《夢》をたっぷり詰めたタイムカプセル本。小学生のときにつくった木箱あり、妹やぬいぐるみと演る台本あり、妹や父からの手紙あり……。

八代目 市川染五郎の身になって読むことができる。不意に染五郎の写真が現れて「ああこれは他人の生だった」と景色が一変し、新たな気持ちで辺りと向き合うことができる。

興福寺の阿修羅像とならぶ松本金太郎(当時)のスナップ写真には澄んだ美しさ。

しかし、綺麗な面貌であるとかすらりと手足が長いといったこと、あまり歌舞伎に関係なく、『勧進帳』で義経を演ったとき「腰の位置が高いせいで、座るぐらいに腰を落とさないと所作がきれいに見えません」と反省の材料にさえなる。

「六代目さんはがっしりとした体型でした。昔の日本人は手足が短い。その時代に日本舞踊がつくられたわけですから、それは手足が長い人が演ったら変に見えます。手足が長いのは疎ましいことなのです」

 

ノンフィクションの定法とはいえ、この齢で厳しく自律していること。だれにもできることではない。

語られぬところにも欲望はある

サーミの血(字幕版)

老女が、煙草を吸う。だれにもたよらぬ気むずかしさをみるようで、出だしからかなしい。それでもここまで生きてきたのだ、というところに救いもある。

スウェーデン映画『サーミの血』(2016)。十代のときの家出と、恋。

観光客相手の職業性や、文化人類学の研究対象となっていることなど、少数民族としての差別の問題は、1930年代すでにかんたんなものではない。

生得の属性を守っても、捨てても重さと苦さがある。それをわからないであいてを愚弄すれば悔恨の種となるだろう。エレ・マリャは自由や美しさにあこがれて教師クリスティーナの名を借り、サーミ人であることを止めたが、さらなる差別に加担したとか悪だったとはおもえない。サーミの世界にとどまった妹をばかにしたことで、それぞれに傷をつくってしまった。そういうふうに観た。

えがかれるのは十代の季節。青春映画だろう。うがった見方をすればクリスティーナと名のる老女エレ・マリャが「教師をしていた」と言うのも嘘かもしれない。しかし生きた。そのことを讃えなければ生はすべて報われない。

監督、アマンダ・シェーネル。

「もう後戻りはできない。新天地に行くか、川に沈むか」

レミングスの夏

レミングスの夏』(2017)

 えがかれるのは、14歳の夏。それを18歳の「僕」が回想するかたち。ある復讐を達成し、「僕」は待っている。

「僕」の名はアキラ(菅原麗央)。おもいだすのはナギ(前田旺志郎)のこと。

前田旺志郎が好い。「行動力」と「迷い」が同居したまなざしと演技。このバランスは年経てどう変わっていくのだろう。

原作は竹吉優輔の小説。謙虚な書き手かもしれない。行為というものが孕む幼さを自覚して、完全犯罪を中学生たちに演らせた。森鴎外高瀬舟』の如く、「判断」を宙吊りに。

刑事にモロ師岡。脚本、監督は五藤利弘。

原作に忠実だからシナリオの行間がすくない。科白したあと俳優たちのうごきが停まってしまうのは、そのせい。