大漁、異漁。耀

タイトルは タトゥーのようなもの

「美しいと感じるものはなんでも好きです」  萩尾望都

芸術新潮 2019年 07月号

美ST(ビスト) 2019年 8月号 (美ST増刊)

萩尾望都『芸術新潮 2019年 07月号』平野紫耀の『美ST』を購入。ジャニーズにもとめ、推したくなるのは萩尾望都的なキャラクターの真ッ直ぐな感情と、社会と接触したときの歪みと、身体能力に由来する挟持なのだと得心する。

なによりも先ず、萩尾望都。原風景とか、原体験といったものとは一寸ちがう。こころのなかの地平に開いた、おおきな穴のひとつ。そこに思考が落ちていきやすい。たとえば立川談志とか。安部公房とか。

 

生きのこった者だけが、出逢いと別れを語ることができる。萩尾望都が、編集者・山本順也のこと。

私は、山本さんに出会ったおかげで、今日までマンガ界でやってこられた。忘れがたい恩人です。誰でも、人生の途上で、こういう良い出会いがあるのではないでしょうか。そういう時は、絶対その人を離してはいけません。

 

50年、100年といった長い時間を隔ててその絵と対峙する場合、描かれた人も描いた人も、もうこの世にいない。そう考えると、肖像画って、ある意味タイムマシーンのようで面白い。なので、ちょくちょくモティーフに使っています。

 

人が毎日同じ夢を見ないのと同じで、ある日はSF、ある日は歴史もの……と行ったり来たりして描いています。

開催中の『Manga マンガ展』(大英博物館)の記事「現地レポート モーさま、ロンドンをゆく」で紹介された質疑応答や研究者の分析が興味深かった。

「『なぜ吸血鬼?』との質問に、萩尾は『私はヴァンパイアが嫌いだったので自分でも驚いています(笑)。夕暮れの丘に、マントを着た少年が立っているイメージが浮かびました。子供なのに、とても大人びていて悲しそう。美しく悲しい吸血鬼なら描けるかもと思いました』」

──作品全体の大きなテーマは?(英国人女性)

「あるとすれば、喪失感をどう埋めるかです」

 

──作品の動きが軽いのは、意識してそう描いているのか?(日本人女性)

「普段は重力に縛られていますが、心は空へ高く舞い上がっていくばかり。それで絵がふわふわしているのかもしれません」

大英博物館アジア局日本部門長のティモシー・クラークが「マンガも浮世絵と同様、動きの一瞬を捉え、雄弁にストーリー・ラインを繋ぐアートだと気づくのに、だいぶ時間がかかった」と。

時間や説明の省略。それが徹底していて萩尾望都は美しい。

 

ある種のタナトスに憑かれていた印象の平野紫耀。『美ST』8月号のインタビューで「仕事への意識」の変化を語っていた。

「デビューが決まってもCD出せるという嬉しさだけだったけどスタートラインに立ったら『うわ、こんなに数字が歴然と細かく出るんだ』って気づいて怖くなりました。でもそう思うと同時に一旦デビューしたからには絶対負けたくないとスイッチが入った」

 

「責任感という言葉が大嫌い」

「頑張れよって言われるのも嫌いだから流すようにしています」

だって言われなくても頑張ってるんだもん。寝ずに頑張ってるんです……僕は 

 

JUST BE JOYFUL

haru*hana(ハルハナ)VOL.56 (TOKYO NEWS MOOK 769号)

スペースシャワーTVプラスの「コリアンヒッツ」をながしていたら、きれいな、淡くするどい二人組のMV。眼をうばわれた。JBJ95の「AWAKE」。

JBJ出身の1995年生まれ。キム・サンギュンとKENTA(高田健太)。

しっかりした、男っぽい貌のほうがKENTAかとおもっていたら、逆だった。

生きているとどんどんものがわからなくなる。国籍とか、性別とか、セクシュアリティなんかでポジショントークできなくなるし、なにひとつきめなくていいというかんじ。

「AWAKE」は、たしかな歌唱と、かわいらしいダンス。

永瀬廉  「平野紫耀とは『戦友でしかない』」

non・no(ノンノ)2019年8月号

『ノンノ』2019.8。King &Prince目当てで買ったのだけれど、雑誌としての充実、旬をピックアップする巧さが先ずある。

旬のひと。kemio。ノンノモデルたち。ふわふわと、謙虚である。モデルたちが「最近のカルチャー活動」として紹介するアーティストや小説、マンガなど、なるほどなあと得るものばかり。

 

King & Prince。メンバーに対する、それぞれのコメントの凄さ。蒸留されたドラマティックなことばたち。

平野紫耀が、岸優太のことを「おじいちゃん」。〈おじいちゃんって、機嫌がいい時と悪い時の差が少ないイメージがあるんです。いつもほのぼのしてる岸くんは、まさにそれ! 好きな子の前ではどうなるのか、見てみたいな〜〉

岸優太は平野紫耀について「メリハリがすごい」、〈オフの時は思いっきり遊ぶし、仕事になるとちゃんとスイッチが入る。本人はずっと自然体でいるつもりだと思うんですけどね(笑)。そこがすごいなぁと尊敬してます〉。岸にとって永瀬廉は「真っすぐ」。〈純粋できれいな心を持ってる人。好きなことはとことんこだわるし、反対に興味がないことは本当に一切興味がない(笑)。そういう嘘のない姿が見ていて気持ちいいんです〉

神宮寺勇太が永瀬廉を「健全な男の子」と言っていて、深い。

〈学生の時に言われた言葉たちは本当に尊いのだ〉  さいあくななちゃん

芸術ロック宣言

トークライブ「芸術ロック公演」(ワタリウム美術館、オン・サンデーズ)行く。『芸術ロック宣言』の現代芸術家・さいあくななちゃんと、装丁を手掛けた川名潤によるイベント。あまりに率直で、何度も胸を衝かれた。

さいあくななちゃんはこの本に命を懸けていた。「芸術」も「ロック」も、ななちゃんにとってたいせつなことば。しぬ気でこの本をつくる。そういう熱量を芝居がかっている、キャラクターじみたものとして受けとるか、ほんとうのこととして容れるのか。

出版に対して自由なDLEパブリッシングだったためにうまく行ったのかもしれない。いや、うまく行っていなかったのだ、『芸術ロック宣言』は完成せずに延期していた。

一昨日の入校日にもう間に合うのが難しいと編集の方に言われました。彼に対して「ちょっとありえないです、ショックすぎて言葉がでませんでした」と責めたラインを一通送ってしまい、家の壁を3回殴りました。壁がへこみました。27歳のロックスターの夢しょっぱな破れる。負けっぱなしだな本当に、私の人生ってやつは。私はいつも負けっぱなし、情けない。太郎賞があってなんだかんだバイトもせずに一年生活できてたけど、賞の喜びや栄光なんて一瞬で、それからはこれ読んでくれてる人もそうだと思うんですけど、負けたり叶わなかったり相変わらずの日々が続いてます。

 

一緒に仕事をしてくれてる人を前に1年間怒ったり、泣いたり、喜んだり、いつも自分は絵にしか感情がうまく吐き出せないので、ここまで喜怒哀楽を人の前で吐き出す自分にびっくりしました。時には会議で机を叩き割りそうになったり、血も涙も何度か流れ、こういう私でもわかってついて来てもらいました。

 

いつも「負けた」と思った時に、「よし、いつかの一発に絶対するぞ。」と思うことが多くて、一昨日感じた「負け」を一発にするのは絶対にこの本での一発でなければいけないと思います。

著者と、デザイナーのあいだに編集者が入る。それがふつうのやりかただけれど、「通訳」が介在していてはラチがあかない。それでさいあくななちゃんは、川名潤と「合宿」することにした。

 

さいあくななちゃんはこれまでの作品2000点のうち、500点くらいはこの画集に入れたかった。

川名潤が本の仕事を好きなのは「手を入れる面積がデカい」からだった。

 

川名潤にとって本と向き合うというのは「地味」なことだが、ななちゃんにしてみれば「キラキラ」。どちらも正解。ことばによって、ひとつのことがたくさんの方向に散らばってしまう。

それをへたに「通訳」するとディスコミュニケーションが加速する。どんどんまずいことになる。「合宿」した。一気呵成に仕事した。そのなかで、生まれる雑談。固有名詞がでる。好きなのは。たま。ブルーハーツ大竹伸朗草間彌生

ふたりして好きなものがあった。あいてを理解しはじめた。

 

さいあくななちゃんは、この本の完成でひとまずの到達をみた。正直、感覚を小休止させたいところだろう。そこへ川名潤が、敢えて二冊目の話を振る。「一冊だして満足して、それきり音沙汰のない作家はいっぱいいる」

川名潤はやりきってなどいない。今作はマゼンタを蛍光ピンクに替えた。つぎは、潤沢な予算で五色刷り。マゼンタも蛍光ピンクも入れて、さいあくななちゃんの作品がもつ本来の「重さ」をだす。

 

さいあくななちゃんとにかく熱い。真面目なのだ。作品をすべてエクセルで管理していたり、対談に備えてメモを作成していたり。

一対一で、きちんと届く。だから本をひらいている時間、キラキラする。

「ロック」は想いを肯定する、ひとを元気にするとさいあくななちゃんは言った。「しね」ということばでさえも、ひとに前を向かせる。それが作物のもつ力。

多数派で多数が好きなものを作り上げてそれが売れることもわかっている、褒められることだって、人間関係円滑にやれることだって、7年目だ。ずっとやっているのでとっくに「成功」するための「近道」に気づいてしまっている。余計なことなんて言わなきゃいいのに。知ってるよ。「死ね」も「死にたい」も言わない方がいいことなんて。しかしだ、自分自身を生きるというもっともシンプルなものをやるものの美しさに人生が触れてしまった自分がいる。

〈あそこにも ここにも しずかに しずかに しんでいる せみ〉

なっちゃんの なつ (かがくのとも絵本)

伊藤比呂美 文、片山健 絵『なっちゃんのなつ』。

ともちゃんちに あそびに いったら

だれも いなかったので

なっちゃんは ひとりで かわらに でかけました

書きだしから、やられる。はじまっている。詩は、こどものつくるぼうけんものがたりに近い。

省略もあるが、足し算もある。話をつぎつぎ順接でつないでいく。事実が溢れていく。生命力。

それが《好き》というものだろう。〈なっちゃんは くずの つるが すき〉、〈なっちゃんは ひまわりの はなが すき〉、〈なっちゃんは あおさぎが すき〉とえがかれる。どれも理由は感覚的だ。土地の匂いは異なるけれど、宮沢賢治だ。

夕立ちも。

「わたしの名前は『病気』です」

リオフェス2019・吉野翼企画『疫病流行記』(北千住BUoY)を観る。

寺山修司、岸田理生の共作である『疫病流行記』。《見世物の復権》という言葉に倣えば、ここでは《疫病》の復権が目論まれた。流行りの病いを隠喩として呼びこむのでなく記憶、潜んで在るものを挑発する。

陸軍野戦病院。トレンチコートの刑事。船。南方へのあこがれ。羅針盤潔癖症。官能。祝祭と犬。

生活感情に根ざした小話の断片と、《疫病》の起源。寺山修司の演劇は、サスペンスと解体にあるだろう。

終盤ちかくに《疫病》及び《俳優》や《台詞》についての謎ときがはじまる。このとき登場人物たちはメイクを落としはじめ、私服にもどっていくのだけれど、これが先日観た『化粧二題』(井上ひさし脚本)と響き合って滅法おもしろかった。

『化粧』の舞台は大衆演劇の楽屋である。その楽屋で目を覚まし、鏡のまえという体で、じぶんの顔を見ることなくメイクを仕上げていくという演劇的な(観ることの)スリルがあって、その逆もまたドキリとするものだ。井上ひさしはそれを物語に乗せるが、寺山修司は蕩尽のためにスリルを用いる。物語から物語性をうばうのである。方法はちがうがどちらの芝居にも《自己発見》なるカタルシスがある。

 

演劇や、情報や、生活のもつ伝染性を肯定的にえがく。秘匿することに意味はないのだから。

「母さんを困らせて、じぶんが困っている」

the座 44号 化粧二題(2000) (the座 電子版)

ことばにできるような、はっきりした理由があるわけではなかった。井上ひさしの『化粧』を観なくてはとおもった。やっていた。紀伊國屋サザンシアターで観た。

『化粧二題』。「化粧」という一人芝居を、有森也実内野聖陽がそれぞれ演じる。〈合わせ鏡〉の如き、母や子の独白。

休憩なしで1時間35分だから、コンパクトなものだ。

子を捨てた母、母に捨てられた子。どちらも、「いま」は大衆演劇の座長である。舞台は幕開き前の楽屋。座員たちも、鏡台も存在していない。いないにんげんをあいてに会話を繰りひろげるのももちろん大変だけれども、観客の想像力に委ねることもできる。凄いのは、おおきな鏡台なしに舞台用のメイクを仕上げていくところ。戯曲で読んでもおどろくし、生で観ればゾクゾクする。現実と虚構を行き来する劇的なダイナミズムが、実験的手法でなく、しっかりと物語におさまっていて、そこも魅力だ。

舞台上の物語が解体されることはないので、座長の五月洋子(有森也実)、市川辰三(内野聖陽)の語る自分史や培われた持論の虚実に観客の眼が留まる。たんじゅんな狂気や良識とはちがった人物がいるのだ。

女座長の一人芝居、単体としての『化粧』(二幕)は戯曲で読めるが、さいしょのト書きに〈彼女自身が信じているところによると、彼女は、大衆劇団「五月(さつき)座」の女座長五月洋子、四十六歳〉と、狂気は決定づけられている。その顕在化と共に化粧もおかしくなっていって、幕。

その残酷さも愛しいけれど、〈自己発見〉として書き改められたのが『化粧二題』。『the座 44号 化粧二題(2000) (the座 電子版)』にこうある。

作者の頭の片隅に住みついている批評家が、次のように厳しく難詰するのも常でした。

「貴様は、女座長の自己発見の瞬間を書こうとしたのではなかったか。二幕劇にするために、女座長を狂女にした途端、自己発見という主題は消えてしまったのではないか」

 

     井上ひさし「前口上」

楽屋で寝ている女座長。はだけた浴衣、有森也実の太ももから『化粧二題』ははじまった。

にんげんの色っぽさ。そうではあるがキリキリしたところ。

狂気はなくなった。しかしある種の閉塞感がのこる。劇場にながれる歌謡曲、そとの工事やクルマの音。たいていのひとの生活はこのようなものだろう。いくらかのノイズと、疎外されたような、それでいて全能感ある日々。

おもうようにはならないし、責めたぶんだけ責められる。ひとびとはじゅうぶんにくるしい。

だから〈自己発見〉だし〈合わせ鏡〉なのだ。論理で観客を追い詰めない。俳優の喜怒哀楽に近づいてもらう。そしてその一人物が前へと進むさまに、魅入らせる。

有森也実はなまなましくて、好かった。

内野聖陽の良さはくっきりとカリカチュアした演技法。それで声や顔の良さが際立つ。戯画化には弱点もあって、いつでも笑いが怒ってしまう。なかなかシリアスにもっていけないと観ていたけれど、誇張されたキャラクターとして市川辰三を演ったから、ラストの母恋い、男性的な甘えが綺麗にでたのだろう。

後味の良い舞台だった。