大漁、異漁。耀

タイトルは タトゥーのようなもの

(実況者だけど リスナーの誰にも見せない秘密の部屋を作ってしまった)  『恋の実況配信はじめました』

恋の実況配信はじめました (gateauコミックス)

さかもと麻乃『恋の実況配信はじめました』。ゲームなどの動画配信、その設定ならではの密室性をさらりと入れてくる。各話きちんと見せ場もある。甘酸っぱい十代。前戯よりももっと手前でみるせかい。

実況者の「ダクト」と「あめる」がすぐにはバディになってくれないところに少年マンガぽさをかんじた。恋は進展する。だからといってふたりでゲーム実況するわけでなく、対戦したい、ライバルでいたいとかんがえている。

愛の成就によって物語が頭打ちになることがない。

俺とダクトくんのことが

エンタメとして

消費されちゃうのが嫌

あめると同じ

チームになるのは

なんか違うと

いうか

 

ゲームでは

あめるとライバルで

いたいから

「僕も何かを観て感動すると、まず歌舞伎に生かせないかな、と考えます」  市川染五郎

婦人公論2020年1月28日号 [雑誌]

婦人公論』2020.1.28。表紙は松本幸四郎市川染五郎。そこからなにわ男子まで。賑々しくて良い号だった。

特集「さぁ、幸運を呼び込もう」はさまざまなひと。美輪明宏は「病院に限らず、思えば現代の日本は、情緒産業がすっかり衰退してしまいました」、

「本当はコンサートもやりたいですし、お芝居もやりたいです。情念として、『あそこに戻りたい』という思いは強い」と。

プリンセス天功、「もともと18歳までしか生きられない命だったのだと思えば怖くない」。

アメリカのショービジネスの世界では、誰でも最大限の努力をするのが当たり前。それでもヒットするかどうかはわからない。

特集の記事がおもしろくって、あちこちめくる。ソニンはタフ。「文化庁新進芸術家海外研修制度にこっそり応募。この制度で留学すれば、誰が何と言おうと、1年間は絶対に帰って来られないんですよ(笑)」

「15歳のときに憧れたSPEEDにはまだまだ遠いけど、『私もソニンさんのような舞台女優になりたいです』というお手紙を、近頃はよくいただくようになりました。実は、それってそのまま、15歳のときに私がSPEEDのメンバーに出した手紙と同じなんですよ」

 

西畑大吾と長尾謙杜が好きなので、なにわ男子のページを堪能。

そして伊藤比呂美の連載に溺れる。単刀直入。その身に引き受けながら書く力づよさ。

 「ああ疲れた ほんとうに疲れた」

これは石垣りんの「その夜」という詩からの引用だ。石垣りんは銀行員として、十四歳から五十五歳(当時の定年)まで結婚せずに働き続けて家計を支えた。「ああ疲れた、ほんとうに疲れた」とつぶやきたくなる夜もあったろうと思う。 

あたしは数年前に岩波文庫の『石垣りん詩集』を編んだ。そのときこの大先輩の詩をすべて書き写しながら読んだ。そしてこの言葉に出会った。有名な詩じゃないし、だれでも書けるような言葉だけど、あの石垣りんが書きつけたんだなと思うと、心にしみた。

「ああ疲れた、ほんとうに疲れた」とあたしも毎日つぶやいている。

「天然で済めば僕も可愛いもんだなと。実際は天然じゃ済まないくらいなので。もっと勉強して、知識を増やしたいです」  岸優太

SPUR(シュプール) 2020年 2 月号 [雑誌]

シュプール』2020.2、岸優太。

シンメやカプといった愛でかたに倣うと、岸優太×岸優太というかんじ。だれかといるのもいいけれど、ひとりで立っているところも佳い。ドラマ『お兄ちゃん、ガチャ』の透明感や、Prince期・じぐいわのとなり、というおにいちゃんぽさのせいかもしれない。

かっこいいと思うのは、自分が目指したゴールをものにしている人たち。結果がすべてだと思うので説得力があります。

たとえばレオナルド・ディカプリオ、大好きです。彼の出ている作品は全部面白い。『ブラッド・ダイヤモンド』は特に。『ロミオ&ジュリエット』の無造作ヘアに憧れて、まねしたことあるんですけど、僕直毛なんでだめで。それで最近、パーマをかけ始めました(笑)。

 

アイドルっていろんなチャンスがいただけるけれど、お芝居でも歌でも一本でやってる人たちは本当にすごいと思います。次々新しい人たちが出てくる中で、一本で戦うっていうのは、考えただけでも怖いから。

 

僕は自分に自身が本っ当にないんです。ライブや舞台では、お客さんにそう気づかれないようにしていますけど、内心はいつもドキドキ。だけど頑張ってドヤ顔って感じです。一生懸命ドヤ顔っす。

岸優太は園児みたいな顔をしている。表情のつくりかたが、あどけない。そのあたりはとてもレオナルド・ディカプリオ

バラエティや歌番組でもおもうけれども、からだがしっかりして厚みもあるから、ごつめの靴やジャケットがよく似合う。

〈彼らは二人で笑いあいつつ、ある共通の考えの中で次第次第に結びついていった。つまり、自分たちの性別の破壊という考えだ〉  ラシルド「ムッシュー・ヴィーナス」

特別な友情 :フランスBL小説セレクション (新潮文庫)

シンポジウム「『フランスBL小説セレクション 特別な友情』刊行記念 仏文×BLのただならぬ関係」に行く。

このアンソロジー『特別な友情』は、映画『悲しみの天使』の原作であるロジェ・ペールフィット『特別な友情』の本邦初訳がウリなのだけど、抄訳にとどまっているのは小説としての完成度の低さゆえ。力の抜きどころというものがなくて、書きこみ過ぎているらしい。

ほかはジッド、ランボーコクトーに抄訳の『チボー家の人々』『失われた時を求めて』『泥棒日記』など入門に最適、大学におけるシンポジウムも入場者の顔もういういしかった。

諸作品の合間に紹介された映画は『太陽と月に背いて』『詩人の血』『見出された時』『悲しみの天使』と手に入れるのはむずかしいが鉄板の並び。

そういう初級者向けのイベントに足をはこぶことにしたのは、訳者の一人に芳川泰久がいたから。

昔日、芳川先生の授業を盗み聞きしていた。そのテクスト論は繊細なはずである。にもかかわらず論者にはマチズモが多く、近年には晩節を汚すニュースも。

そのなかで芳川先生はどうされているか。先生には多分にファン気質のところあり、マッチョとは縁遠いとおもうけれども、それにしても、BL──どのように向かい、訳されたのか。

 

結論からいうと懐かしく、また頼もしかった。その語り口は三遊亭円丈みたいだった。森井良、中島万紀子とともにコスプレして登壇した。寄宿学校ふうの赤いリボンに金髪のウィッグ。芳川泰久、やわらかかった。

病気をされたと言う。そして今度のBLとしての訳出。だんだんと自由に、アグレッシブになってきていると。いまも。硬直することなく。

芳川泰久が担当した小説のひとつがプルースト失われた時を求めて』(のなかの「ソドムとゴモラⅠ」(のなかの一部))だが、あやまたずニュアンスを伝えるための自由な訳として原文にない三、四行の創作がある。

BLよりは耽美の傾向がつよい芳川泰久は、登場人物の死から書き起こすような物語性を好みもするので、じぶんの噂を立ち聞きすることになる「ぼく」の胸中に踏みこまざるを得ない。それを挿入した。

巻末の解説は森井良の名によるものだが、プルーストの項、〈「ブルジョワの若僧」とは誰のことなのか、いままでの先行訳ではこの点をはっきりとはさせていません。しかしここは男爵が立ち聞きされているとも知らず、「ぼく」のことを噂している箇所でしょうし、文脈から考えると、それまで蚊帳の外で盗み見ていた無名の語り手が登場人物から不意打ちをくらう瞬間なのです。今回の翻訳では、そういった「言わないけどここはわかってね!」という文脈をあえて訳文に反映させることで、プルーストが仕掛けたトリックの妙を際立たせようと試みました〉と。

 

ラシルド「ムッシュー・ヴィーナス」は生物学的には女性と男性。男性的な女性と女性的な男性の物語である。その名に震える。

男性のほうはジャック(ジャジャ)。女性は、ラウール。

「ぼくはいったい何をカッコつけてたんですかねえ」

BS笑点ドラマスペシャル 五代目 三遊亭圓楽 [DVD]

BS笑点ドラマスペシャル第2弾  五代目 三遊亭圓楽』観る。

円楽を谷原章介立川談志駿河太郎。五代目円楽の堅苦しさ、談志の危なっかしいところがよくでている。

美談、失敗談のならぶ予定調和の青春物語に終わらず、社会と戦い、越えていく。

さいしょにおどろいたのは、落語協会の幹部から叱られ、衝突するくだり。

コゴトする幹部に村田雄浩、中西良太。丁寧でフェミニンな、むかしの落語家の話しぶり。ふたりともじつに嫌味で、好かった。

事前に、師匠のおかみさん(財前直見)から「ここは何を言われても、耐えておきなさい。けっして口ごたえなんかせずに『恐れ入ります』『左様でございます』『滅相もございません』、これをかわりばんこに、繰りかえしてりゃいい」とおそわるのだが……。

「テレビ屋さんたちに乗せられて、浮かれちまってんだ」といった妬み混じりの叱責ののちに村田雄浩「まあ、てなことで」、中西良太「てなとこで」と言い交わし立ちあがるのが可笑しい。

お灸をすえる、威厳を示すくらいなつもりだったのだ。しかし若者は非常な反発をする。声震わせて「滅相もございません」。これが反撃の狼煙となる。

「破門するならばするで結構でございます。ですが、わたくしの考えを間違っているとは思いません」

 

テレビ番組「金曜夜席」をめぐるやりとり。

円楽「わざわざテレビにでて恥は掻きたくないし、(出演者に)掻かせたくもないんでね」

談志「あんたのいけねえトコはそこだ。恥掻いて何がいけねえ。気取ってんじゃねェよ。芸人が気取ってて笑いが取れるかってんだ。恥も掻かないで楽してんじゃねえ。恥を知りやがれ」

 

林家こん平松本大志)はまっすぐに、林家木久蔵柄本時生)はぼんやりと悩んでいる。三遊亭小圓遊松尾諭)の苦しみは深い。

しあわせなだけのドラマだろうとあなどっていたぶんだけ、かれらの挫折がひびいた。

塚本高史も良い。

〈日本はかくも狭い国である。運命もくそもないのである〉  西東三鬼

神戸・続神戸(新潮文庫)

昭和十七年の冬、私は単身、東京の何もかもから脱走した。

さいしょの一行からゾクゾクする。逃げだす者がおぼえる陶酔を想うと昂奮してしまうのだ。

「私」は神戸にいた。〈街の背後の山へ吹き上げて来る海風は寒かったが、私は私自身の東京の歴史から解放されたことで、胸ふくらむ思いであった〉

 

西東三鬼『神戸・続神戸』。戦争中の話。外国人と女性ばかりの「奇妙なホテル」に「私」は長期滞在していた。〈その頃の私は商人であった〉

〈私の商売は軍需会社に雑貨を納入するのであったが、極端な物資の不足から、商売はひどく閑散で、私はいつも貧乏していた〉

 

多くのひととはちがう暮らしである。

マジットはのべつ嘘をついた。彼の各国漫遊談は、その嘘が混じるために、実に独創的で、新鮮で、いつまで聞いていても飽きなかった。だから私は、それは嘘だろうなどとは決していわなかった。

そうではあるけれど、「私」は他人の物語についてシビアでもある。

通俗小説はどこまでも通俗的発展をせねばならない。

 

私は運命論者ではないが、戦争をしている国の人間は、誰でも少しずつ神秘的な精神状態になるのではあるまいか。

 

そもそも私が神戸という街を好むのは、ここの市民が開放的であると同時に、他人のことに干渉しないからである。誰がどんな生活をしていようと、どんな趣味を持っていようと、それはその人の自由であるとする考え方が、私の気性にあうのである。

〈彼等や彼女等は、戦時色というエタイの知れない暴力に最後まで抵抗した〉

 

 

小心な私は「危険な曲り角」を曲らなかった。そのために、その後は、ゆるやかな危険に、常に身をさらしているのだ。

「続神戸」では戦後もえがかれる。〈私は、昭和十五年の夏以来自ら中絶していた俳句を、終戦と共に、再び作り初めた。新興俳句の断絶以後、私は新しい方向を発見せねばならなかった。五年間の空白の時間は新興俳句への反省の時間でもあった。しかし、それは弾圧を是認するようなものではなく、防空壕の棚に置いてあった俳句の古典と、新興俳句の精神とのつながりを発見することであった〉

詩作をしない沈黙の期間。再び立ちあげるための戦略。こういう刻の重さが人生だなあとおもうようになった。

そして「私」はやっぱりおかしな仕事をはじめる。

しかし、私は何でもやってみたかった。歯科医、会社重役、商人と、私の職業は転々したが、最低と聞いてからは、そこに自分を置く決心を新しくした。

〈便所修理屋になっていたのだ〉

純愛。騎士道的な。どこか虚言のけはいもある。

華麗なるギャツビー [DVD]

大人計画『キレイ〜神様と待ち合わせした女〜』を観て連想したのは『華麗なるギャツビー』。

《ケガレ》《まなざし》《花》といった。

 

成就しない。それなのに完成はある。