李恢成『可能性としての「在日」』。エッセイと講演録。1970年から2001年まで。ながい時間が1冊にまとまっている。ここで何度も言及される北朝鮮と韓国の平和的統一は、まだ実現していない。
初出もあるけれど、底本に『沈黙と海』『円の中の子供』『時代と人間の運命』を用いたものも。
目次を読んでいると詩のようだ。
北であれ南であれ わが祖国
フカに人間はいつまでくわれているか――金大中氏拉致事件におもう
初心
神々にきみの座をゆずるな
熱狂と現実
つぎは、どこだ
時代にたいする痛苦の感銘度
…………
〈今回も、私は「朝鮮」籍のまま、韓国に向うことになっていた。これは特殊なケースである。ふつう「朝鮮」籍の外国人登録証をもっている者は、韓国の地を踏むことができない〉(「北であれ南であれ わが祖国」)
なぜ出かけていくのか――羽田国際空港に向うその道すがらたえず私はこの自問をくりかえしていた。私の韓国行きを知った知人達は反対する人が多かった。ある人は、そこが国家非常事態宣言下にあることを思い出させようとした。またある人は、私の行動に不信を抱き、背理者に対するように振舞う人もいた。
物見遊山でない。当事者性と、文学者の眼。機上から山を見る。
〈朝鮮の山脈をはじめて見た二年前もそうだったが、こんども私は肌寒いおもいをした。はっとするほど、山々は傷ついていたのだ〉
文学的企みのひとつとして懐かしくもある書きかただ。そのために李恢成の短編集『またふたたびの道 砧をうつ女』、金史良『光の中に』など手を伸ばしつつ、このエッセイ集を読み進めた。
〈祖国の山野はなにか物問いたげだ〉
ある日、T新聞社の記者が原稿を依頼してきた際、私は笑いながら「原文どおり、出してくれますか?」と条件をつけた。すると、そのジャーナリストは一瞬苦しそうにしわを浮べて、「最大限の努力をしましょう」と穏やかにいい、笑いかえしてきた。そのとき私はハッとし、自分のいたらなさを後悔した。韓国のマスコミは言論弾圧の困難な条件下で仕事をしているのである。昨年(一九七一年)四月七日の「新聞の日」には、韓国新聞協会、同記者協会などが言論の自由を要求する宣言文を発表し、たとえば新聞の編集部に「出勤」して業務をとる中央情報部員の立ち入りを拒否している。しかし、十月十五日の「衛戍令」、十二月六日の「国家非常事態」宣言とつづくきびしい情勢のなかで、学生、知識人、文学者は沈黙を余儀なくされ、新聞も一切の政府方針批判を封じられている。南の地にやってきた私は、ジャーナリストの苦悩を分ちあう必要こそあれ、何か特権的な寄稿者のような錯覚におぼれることはつつしまなければいけないのだった。
〈物神の圧倒的な力の前に、いまは沈黙を余儀なくされている学生達の迫るような視線に囲まれていると、私は胸がざわめくのをおぼえた。もっと話したいことがあった〉
〈人を捕まえる、都合の悪い人間は叩きこむ、邪魔者は追放する、蒸発させる――このようなことがこの一年間の韓国ではひんぱんに起っていたからだ。恐怖政治、といっていい事態が祖国の南の土地でくりひろげられていた〉
〈フカに民主主義を骨ごとくだく権利を誰があたえたのか〉
私は、「途上」とか「未完成」という言葉が好きである。
自分が歩んできた道をふり返ると、そんな実感が強い。おそらく終生この言葉はわが身から離れることがないだろう。これは人生における励ましの言葉でもあるのである。どこまでも歩みつづける限り、私はそのつど自分の限界にぶつかり、それを超えていこうとしては挫折するだろうが、むしろそんな自分との出会いが望ましいとさえ思うほどこの世界は無限に深く大きい。
李恢成のこの感覚は創作論、文学観にも見いだせる。
〈ぼくなりにいえば、自分が創作意欲にかられるのは、それだけ目の前に荒野があるからなのである。人間を理解しようとするとかえって誤解におちいって人間不信になることがある。そのように、朝鮮人が日本人を、日本人が朝鮮人を理解するということはある意味で人間不信の極限からはじまる仕事であり、その荒野を犂(す)き、種を蒔くことは非才なぼくには手にあまる大仕事にうつってくる〉
〈つい数ヵ月前までつとめていた職場は、いかに病んでいるとはいえ、祖国の統一に寄与する性格をもっている場所なのに、自分はそこを離れて、いかに食うためとはいえ、日本の大企業の下請け会社に身分を偽ってはたらこうとしているのである。背中がジリジリと焼け焦げていくような空虚な気分だった。それに、自分の出自を偽っていることが、やりきれなかった。そのためには日本名を使い、履歴をごまかしていた。やりたいと思いつめている小説を書くしかない。ワラをも摑むような気持ちであった〉
〈とにかく、長く、書く必要があったのだ〉
真摯なぶんだけ、視点が限定的になって、抜けが生じることもある。
〈私は『サハリンへの旅』を書いたことで満足していました。サハリンに抑留されている朝鮮人の不当な状況について私なりに開示したつもりでいたからです〉
〈社会主義が誕生したその当初の理念が生かされておれば、このサハリンの地で朝鮮人はロシア人と法的にも平等であったでしょう。しかし現実はといえば、少数民族である朝鮮人は差別されておりました〉
〈ところが、日本人文学者の秦恒平さんが、この本を読んで、要約すれば、次のような手紙を書いてくれたのでした。「いい本だ。しかし、あんたは自民族のことしか書いていないじゃないか。たとえば、アイヌ民族のことに触れていないのは残念です」
私はびっくりしました。彼の指摘が正しかったからです。全くそのとおりです。たしかに私は、自分の身内のことや朝鮮人の運命ばかりああだこうだと書いているのですが、この島に住む他の民族――とくに同じ劣悪な境遇にいると思われる少数民族の状況について――まるで触れていなかったのです。私はふいに恥かしい気がしました〉
一九九六年の講演「『韓国文学』の明日と『在日文学』の希望」ではつぎのように述べている。
「私たちは、誰かが誰かを非難するというのではなく、みずからがすすんで過去の不足点を埋めるために『告白論』を内在させた文学者として、明日の民族文学、ひいては世界文学の創造をめざし、この席に一緒に坐っているのだと信じたいのです」
「もし、わが民族の内部に、自民族中心主義の傾向があるとすれば、そこからは世界文学が生れてくるのはむずかしいでしょう。自民族のことしか考えられない精神状況に陥っておれば、他国の人間の運命にたいしてまで責任を持つという大きな道徳性と公平な精神力を期待するのはとても無理な相談なのです」
不足の感覚。
「共通性があり、異質性もあるということが、文学表現をするどいものにしていく土台なのです」