大漁、異漁。耀

タイトルは タトゥーのようなもの

〈俺たちモグラ 酒があればいい〉

椿組『貫く閃光、彼方へ』観る。花園神社野外劇。

1年間、延期されていた演目。おもな舞台は1962年の新丹那トンネル掘削現場。このトンネルを新幹線が走る。目ざすは1964年の東京オリンピック。TOKYO2020に合わせたテーマでもあったわけだ。

「コロナ禍の中の演劇公演。」と題して椿組座長の外波山文明がパンフレットに書いている。

「完全ではありません。勿論オリンピックも。でも、そんな日々の中で、演劇を楽しむ!芝居を味合う!人との触れ合いを喜ぶ!それが生きている楽しみですよね!そんな単純な事を本日眼の当たりにして、味合い、噛み締め、後日楽しみ直して頂ければ役者冥利、座長冥利に尽きます」

 

椿組は客入れが賑賑しくて楽しい。開演前の役者たちによる席の案内や飲料の販売。昔の、サーカス小屋のよう。

開演間際の外波山文明の挨拶も、カタかったりスカしたりということがなく、つまりはスルどさを欠いているが、芯のところでプロである。大掛かりな装置、演出、それをみちびく脚本。

幕が開くとトンネルの切羽(きりは)。俳優たちの歌ではじまる。全編ではないがミュージカルパートもある。ミュージカルは、ブルーカラーラブロマンスとの相性が非常に良い。

物語は1962年と、かがり火を頼りに船を漕いで百夜参りする「昔々」と、現代。1962年は肉体労働の鷹揚さと厳しさを生き生きとえがき、「昔々」では恋する男女とそれを邪魔する母親をあつかう。どちらも歌が用意されていた。

さらに「現代」のパートがある。スランプに陥った陸上部員が雑誌記者に語りによって1962年を垣間見るかたちになっているのだけれど、ここがややアクの足りない狂言回しのようでもったいなくて、このひとたちにも歌があればもっとつよく3つの時空が絡んだろうとおもった。

 

椿組はでてくる俳優が多くてもそれぞれきちんと印象にのこる。全員に触れる力はないが、日常の肉体を有するチョウ・ヨンホ。つくり過ぎることがない。

どう見ても凶凶しい母親役の水野あや。よその組の者だからこそ、新人を叱ることができた世話役を演った田渕正博。コメディ・リリーフとして鉄道局役人の、佐久間淳也、木下藤次郎。

根がまじめそうな池田倫太朗。など。

出番の多かったひとたちに魅力があったのは言うまでもない。

暑い夜。テント芝居ははじまれば風がとおる。

杉田玄白83歳

扉座『解体青茶婆』観る。作・演出、横内謙介

日本の古典芸能に寄せた演出で、正方の舞台。生の演奏(ここではヴァイオリン)。間接照明、また夜を表すものとして蝋燭の灯り。

杉田玄白(有馬自由)の晩年。「蘭学事始」の草稿は出来ている。しかし、腑分けされた罪人の幽霊を視るようになってもいた。

この幽霊が青茶婆(中原三千代)。なぜ玄白のまえに現れたのか。伝えたいことがありそうだ。杉田玄白に生きてほしい、元気になってほしいと腑分けされたすがたを見せつける。

登場人物は、蘭と呼ばれる玄白の娘(砂田桃子)。玄白と前野良沢に師事した大槻玄沢山中崇史)。玄沢が目を掛ける宇田川玄真(新原武)。

かつて腑分けの死体確保に尽力した得能万兵衛(岡森諦)。被差別階級の虎松(犬飼淳治)。

若き門弟役に鈴木利典、小川蓮。

本日のヴァイオリン奏者はビルマン聡平。

 

蘭と破談になった宇田川玄真は、その理由を「変態性欲」と説明される。難のある女性とばかり関係するという。

玄真が被差別階級を嫌うのはわかる気もする。階級で社会を見ている。性愛のあいてをじぶんと対等なものとしてかんがえられない人物のようだ。

玄白の主観に過ぎる「蘭学事始」の校訂をめぐりながら、旧弊な不平等の打破が説かれる。士農工商。男と女。おなじにんげんではないか。西洋人と東洋人の臓器の位置はいっしょ。蘭学から自由や平等という「危険思想」を培っていく。

自由をもとめる心が、じぶんより年若い者を気に掛けることにつながっていく。それが青茶婆や大槻玄沢、蘭、得能万兵衛をうごかしている。

愛と悔いのクローズアップが上手く、泣いた。

(不器用が愛しいのか。愛しいけど不器用なのか)

『裸の少年』 少年の髪型が新ドラマの仕様になり、楽しみになってくる。

ダンス早覚え対決。HiHi jets作間龍斗井上瑞稀はさすが。

そして美しさを取り戻した佐藤龍我。遠慮がちな時期を経て、よみがえる悪童の快活。悪童の心はまっすぐだ。

 

『ザ少年倶楽部』の佐藤龍我は、楽屋で音楽をかける岩崎大昇に触れて「大昇、あの……音量下げろ! もう、耳壊れんだよ!」。

 少年の「真剣SUNSHINE」(Hey! Say! JUMP)はキレイがキレイをカバーしているふうで、とても良い。青春とおんなじ恋の匂い。

龍我ソロパートの〈オレンジに染まる 水平線眺めながら 誓ったんだ この手を離さない〉。束の間、光の消えた遠い目をする。大昇の壊れそうな透明感とはちがう、有段者の透明感を佐藤龍我はもっている。

〈議会も虚ろな空間にすぎないのだ。失敗も成功もすべては上層部が決定する。私が、北と南の体制がどこか似ているという疑問を抱きはじめたのはその頃からである〉

可能性としての「在日」 (講談社文芸文庫)

李恢成『可能性としての「在日」』。エッセイと講演録。1970年から2001年まで。ながい時間が1冊にまとまっている。ここで何度も言及される北朝鮮と韓国の平和的統一は、まだ実現していない。

初出もあるけれど、底本に『沈黙と海』『円の中の子供』『時代と人間の運命』を用いたものも。

目次を読んでいると詩のようだ。

北であれ南であれ わが祖国

フカに人間はいつまでくわれているか――金大中拉致事件におもう

初心

神々にきみの座をゆずるな

熱狂と現実

つぎは、どこだ

時代にたいする痛苦の感銘度

 

 

…………

〈今回も、私は「朝鮮」籍のまま、韓国に向うことになっていた。これは特殊なケースである。ふつう「朝鮮」籍の外国人登録証をもっている者は、韓国の地を踏むことができない〉(「北であれ南であれ わが祖国」)

なぜ出かけていくのか――羽田国際空港に向うその道すがらたえず私はこの自問をくりかえしていた。私の韓国行きを知った知人達は反対する人が多かった。ある人は、そこが国家非常事態宣言下にあることを思い出させようとした。またある人は、私の行動に不信を抱き、背理者に対するように振舞う人もいた。

物見遊山でない。当事者性と、文学者の眼。機上から山を見る。

〈朝鮮の山脈をはじめて見た二年前もそうだったが、こんども私は肌寒いおもいをした。はっとするほど、山々は傷ついていたのだ〉

文学的企みのひとつとして懐かしくもある書きかただ。そのために李恢成の短編集『またふたたびの道 砧をうつ女』、金史良『光の中に』など手を伸ばしつつ、このエッセイ集を読み進めた。

 

〈祖国の山野はなにか物問いたげだ〉

 

ある日、T新聞社の記者が原稿を依頼してきた際、私は笑いながら「原文どおり、出してくれますか?」と条件をつけた。すると、そのジャーナリストは一瞬苦しそうにしわを浮べて、「最大限の努力をしましょう」と穏やかにいい、笑いかえしてきた。そのとき私はハッとし、自分のいたらなさを後悔した。韓国のマスコミは言論弾圧の困難な条件下で仕事をしているのである。昨年(一九七一年)四月七日の「新聞の日」には、韓国新聞協会、同記者協会などが言論の自由を要求する宣言文を発表し、たとえば新聞の編集部に「出勤」して業務をとる中央情報部員の立ち入りを拒否している。しかし、十月十五日の「衛戍令」、十二月六日の「国家非常事態」宣言とつづくきびしい情勢のなかで、学生、知識人、文学者は沈黙を余儀なくされ、新聞も一切の政府方針批判を封じられている。南の地にやってきた私は、ジャーナリストの苦悩を分ちあう必要こそあれ、何か特権的な寄稿者のような錯覚におぼれることはつつしまなければいけないのだった。

〈物神の圧倒的な力の前に、いまは沈黙を余儀なくされている学生達の迫るような視線に囲まれていると、私は胸がざわめくのをおぼえた。もっと話したいことがあった〉

 

〈人を捕まえる、都合の悪い人間は叩きこむ、邪魔者は追放する、蒸発させる――このようなことがこの一年間の韓国ではひんぱんに起っていたからだ。恐怖政治、といっていい事態が祖国の南の土地でくりひろげられていた〉

 

〈フカに民主主義を骨ごとくだく権利を誰があたえたのか〉

 

私は、「途上」とか「未完成」という言葉が好きである。

自分が歩んできた道をふり返ると、そんな実感が強い。おそらく終生この言葉はわが身から離れることがないだろう。これは人生における励ましの言葉でもあるのである。どこまでも歩みつづける限り、私はそのつど自分の限界にぶつかり、それを超えていこうとしては挫折するだろうが、むしろそんな自分との出会いが望ましいとさえ思うほどこの世界は無限に深く大きい。

李恢成のこの感覚は創作論、文学観にも見いだせる。

〈ぼくなりにいえば、自分が創作意欲にかられるのは、それだけ目の前に荒野があるからなのである。人間を理解しようとするとかえって誤解におちいって人間不信になることがある。そのように、朝鮮人が日本人を、日本人が朝鮮人を理解するということはある意味で人間不信の極限からはじまる仕事であり、その荒野を犂(す)き、種を蒔くことは非才なぼくには手にあまる大仕事にうつってくる〉

〈つい数ヵ月前までつとめていた職場は、いかに病んでいるとはいえ、祖国の統一に寄与する性格をもっている場所なのに、自分はそこを離れて、いかに食うためとはいえ、日本の大企業の下請け会社に身分を偽ってはたらこうとしているのである。背中がジリジリと焼け焦げていくような空虚な気分だった。それに、自分の出自を偽っていることが、やりきれなかった。そのためには日本名を使い、履歴をごまかしていた。やりたいと思いつめている小説を書くしかない。ワラをも摑むような気持ちであった〉

 

〈とにかく、長く、書く必要があったのだ〉

 

真摯なぶんだけ、視点が限定的になって、抜けが生じることもある。

〈私は『サハリンへの旅』を書いたことで満足していました。サハリンに抑留されている朝鮮人の不当な状況について私なりに開示したつもりでいたからです〉

社会主義が誕生したその当初の理念が生かされておれば、このサハリンの地で朝鮮人はロシア人と法的にも平等であったでしょう。しかし現実はといえば、少数民族である朝鮮人は差別されておりました〉

〈ところが、日本人文学者の秦恒平さんが、この本を読んで、要約すれば、次のような手紙を書いてくれたのでした。「いい本だ。しかし、あんたは自民族のことしか書いていないじゃないか。たとえば、アイヌ民族のことに触れていないのは残念です」

私はびっくりしました。彼の指摘が正しかったからです。全くそのとおりです。たしかに私は、自分の身内のことや朝鮮人の運命ばかりああだこうだと書いているのですが、この島に住む他の民族――とくに同じ劣悪な境遇にいると思われる少数民族の状況について――まるで触れていなかったのです。私はふいに恥かしい気がしました〉

 

一九九六年の講演「『韓国文学』の明日と『在日文学』の希望」ではつぎのように述べている。

「私たちは、誰かが誰かを非難するというのではなく、みずからがすすんで過去の不足点を埋めるために『告白論』を内在させた文学者として、明日の民族文学、ひいては世界文学の創造をめざし、この席に一緒に坐っているのだと信じたいのです」

「もし、わが民族の内部に、自民族中心主義の傾向があるとすれば、そこからは世界文学が生れてくるのはむずかしいでしょう。自民族のことしか考えられない精神状況に陥っておれば、他国の人間の運命にたいしてまで責任を持つという大きな道徳性と公平な精神力を期待するのはとても無理な相談なのです」

不足の感覚。

「共通性があり、異質性もあるということが、文学表現をするどいものにしていく土台なのです」

「世界を食ってやるって思ってた。だけど実際は」

パスワード:家 (h0us3)

インターネットの情報や、闇。そこを泳いでカネを持とう、権力を握ろうというイキッたIT仲間たち。ひさしぶりにあつまる。

密室の会話劇。近隣のWi-Fiすべてに入ることができる、きみたちのパスワードも当ててみせるなんて話からウィキリークスアノニマスといったアンダーグラウンドのリアルへと進んでいく。かんたんな心理学から奇譚に合流するさまは古典的な探偵小説。強気な人物たちが集団ヒステリーに陥る終盤も良い。

『パスワード: 家』(2018)。原題は「H0us3」。監督マノロ・ムンギア。共同脚本にセルヒオ・マルティネス。

この世には検索できない情報がある。ダークウェブ。皆を招いた家主のラファは、そこで30秒後を映すアプリをみつけた。

皆でプログラムをいじる。3時間先のことが視えるようになる。12日後が視えるようになる。

いちばんこわいのはにんげん、という時代はとっくに過ぎているのかもしれない。

未来が視えるから、未来を変えることはできる──そういう安心はじぶんたちより高次の存在を想定していないからで、より上のものに未来を牛耳られたらどうなるか。

「きみが何をしようといつでも先回りできる」

情報戦は怖い。かならず勝者が生まれる。それが人類とは限らない。

〈屋根の間をゆるゆると鷲だ〉  岡田幸生

岡田幸生の句集『無伴奏』。はじめに刊行されたのは1996年。文庫サイズの新版を、御本人から買うことができる。

「序」で北田傀子が書いている。

短時日のうちに随句(自由律俳句)というものの、いわば息遣いがのみこまれたようで、私は目を見張る思いがした。随句がわかるかわからないかは体質の問題であって、今の若者(特に男性)にそんなものは実在していないような気がしていたのだったが、それが受けいれられる体質の若者が突然目の前に現れて私は驚いたのである。

私の考え方は難しくない。句は一種の「ひらめき」(肉体感覚の)で、それは理屈で説明し得ないいわば「無条件」である。したがって随句は文章によらず韻となる。「ひらめき」は瞬時であるから句は最短の韻文(三節)となる〉

〈心優しいということには白紙の状態に通じるものがあるのか、それとも「理屈でない」ということと共通するものがあるのだろうか。句人としての成功の鍵はあんがいそんなところにあるのかとも思える〉

 

短詩の本はすぐに買えなくなってしまうので、こういうかたちで手にとれることが先ず嬉しい。

そして一句目から感動的。

青空と雪解け水の音ばかりする

 

好みに任せて引いてみる。

春の陽を吸って吐いた

日差しの辞書がぬくもっている

 

赤いつつじの黒い揚羽よ

 

熱帯夜の冷蔵庫が黙った

 

あかるいうちには帰りつけない秋になる

スケッチブックのいちょうの匂いだ

 

みかんいろのみかんらしくうずもれている

爪を切った指が長い

玄関あいて粉雪

停電の部屋を泳いだ

あたたかい布団のなかの無重力

雪ひらがなでふってきた

 

岡田幸生、三十代前半の句たち。

いまどんな句を詠むのだろう。

舞台にも。俳優がたくさんたくさん乗っていた日を思いだしつつせむし男。

演劇実験室◎万有引力青森県のせむし男』観る。琵琶、川嶋信子。二十五絃箏、本間貴士。上演時間1時間15分。

寺山修司の、探偵小説ごのみ。独白と、噂話ではじまるので、人間と人間がぶつかり合うドラマは中盤以降。

老いたる花嫁・大正マツに高田恵篤、女学生に森ようこ、母恋のせむし男・松吉には三俣遥河。

三俣遥河の懸命で訥々としたところが松吉らしくて好かった。万有引力は不穏で凶凶しい俳優と、それと真っ向からぶつかるような「新人」が共存する。その立ち位置がうまく効いていた。

松吉の衣装にはホラーゲーム『DBD』のブライトを連想。舞台で二役、三役演じるなかで松吉がいちばん重要なのに顔を隠した衣装だったのはおもしろい。それによって老いたる花嫁マツの物語もくっきり浮かび上がった。

三俣は三好華武人とシンメ。ほかに飛永聖と今村博。小林桂太、伊野尾理枝、木下瑞穂、山田桜子、内山日奈加。

美少年役の百音も印象にのこった。