大漁、異漁。耀

タイトルは タトゥーのようなもの

4年ぶり。吉祥寺

『吉祥寺寄席』第58回「おめでた芸で、笑って祝う4年ぶりの再開!」行く。

演目は春風亭三朝「松曳き」、翁家和助「太神楽 おめでた芸を満喫」。仲入あって立川龍志「寝床」。

 

「松曳き」は“主従の粗忽”といわれるように殿様がそそっかしければ、家老の三太夫もそそっかしい。メインとなるのは三太夫で、届いた書状の「御貴殿様」を「御殿様」と読み違える。そのドタバタ。

春風亭三朝はかなり陽気に振っているが、職人たちの三太夫への態度、三太夫の殿様への態度に不器用な畏れ、生活上の渋みが表れているような落語家はいるのかしらと一寸おもった。

ゲストコーナー、翁家和助。畳敷の講堂で太神楽を間近に堪能する愉しさは別格だ。観る側の反応も、いわゆる寄席(よせ)よりずっと盛り上がって渦を巻き、興奮する。いまの暮らしとはやや遊離した太神楽を身近なものにすべくさまざま発案する翁家和助が魅せた。

 

立川龍志「寝床」。マクラは、明治期の娘義太夫の人気ぶりなど。義太夫の隆盛を伺ってからのハナシ、旦那芸の遠慮と図々しさに愛しさがある。

立川流で聴く「寝床」のコメディとして練られたかんじ。好きだ。

胡弓 高橋翠秋 紀尾井町

高橋翠秋・胡弓の栞』第十三回。パンフレットに〈この度は平成十年に催しました初リサイタルと奇しくも創作を除いて同じ番組が並びました〉とある。副題は「明日へ繋ぐ」。

古曲「千鳥の曲」

本曲「鶴の巣ごもり」

創作「蝶 『荘子』による」

創作「月の傾城」

胡弓は三味線、箏と並ぶ日本の伝統的な楽器だけれど、いまも異国の音がする。たっぷりとした馬の毛の弓で擦り、遥か遠くをえがきだす。

浜や空、鳥に蝶と胡弓は自在で、その持ち味を存分に発揮した高橋翠秋作曲の「蝶」と「月の傾城」。どちらも好かった。

 

「蝶」の胡弓は高橋翠秋と高橋葵秋、母娘の競演だった。受け持つパートも、弦の調整もちがうのだろうけど、そのうえで演奏の巧拙を看て取れるのが興味ぶかい。胡弓は眼にも愉しい。いくらかわかるようになってきた。

「蝶」の語りは中村児太郎。「昔者(むかし)、荘周(そうしゅう)、夢に胡蝶と為(な)る。栩栩然(くくぜん)として胡蝶なり。自ら喩(たのし)みて志(こころ)に適(かな)うか、周なることを知らざるなり。俄然(がぜん)として覚むれば、則(すなわ)ち蘧蘧然(きょきょぜん)として周なり。知らず、周の夢に胡蝶と為(な)るか、胡蝶の夢に周と為(な)るか。周と胡蝶とは、則(すなわ)ち必ず分(ぶん)あらん。此(こ)れを物化(ぶっか)と謂(い)う」……。

 

「月の傾城」初演は今夏の「藝能学会2023年度『藝能セミナー』」とのこと。

「月の傾城」には宇治文雅と二世宇治紫友が作曲し、京舞とともに披露したもの(1953)、宮崎春昇作曲の地歌吉村雄輝の舞によるもの(1957)があり、今回は令和の新作だ。

歌・三絃は岡村慎太郎、胡弓高橋翠秋、箏に松坂典子。

歌詞はもちろん折口信夫

月の夜に 傾城ばかりあじきなや。広い座敷にしよんぼりと、我(ワレ)いとほしのもの思ひ。

空は晴るれど、はれやらぬ心にひびく宵の鐘。寺々(デラ)多き京の内。数々告ぐる入相の数ある音に、尼が撞く鐘のひびきも交るらむ。

しんきしんきに胸つかへ心いらだつ鼻の先(サキ)、見えすくやうな追従(ツイショウ)を聞きともなやと人よけて、構(カマ)はれともなきわが思ひ。

見わたせば、薄霧かかる河原の松の、墨絵のやうな立ち姿。白き二布(フタノ)に浪よせて、風に吹かるる気散じさ。この身になつて何の見え。松になるなら河原の松に、風に吹かるる気散じさ。

思はぬ軒に陰さして、うなだれ見ゆる頤(オトガヒ)の、このまあ痩せたあはれさを、とひ来る人のあれかし。はりも涙もふり払ひ、泣きよる我を見よかし。月に照らされてゐる我が身。

失われた「鬼」を求めて

他界への冒険~失われた「鬼」を求めて~ (光文社文庫)

【小松】都は富がある場所というふうに農村から見られているし、男をあげる場所、都市というのはだめな人間でも変身できる場所であるとも見られている。

1984年、朝日出版社のレクチャー・ブック・シリーズの一冊として刊行された『他界をワープする――民俗社会講義』が光文社文庫となって『他界への冒険〜失われた「鬼」を求めて〜』(2003)。小松和彦立松和平の対談。オファーは立松和平から。どちらも1947年生まれ。

トリックスター、メディア論として焦点を当てられる他界は興味ぶかい。しかし「講義を終えて」で小松和彦が書いているとおり〈私たちがここで議論した事柄は未熟なものばかりである〉。〈ここで用いられている「他界」という語の意味はきわめて広い〉

「中心」に対して「周縁」、「表」に対して「裏」、「光」に対して「闇」、「われわれ」に対して「かれら」、「人間」に対して「神」や「妖怪」、「平地」に対して「山」や「海」、「生」に対して「死」、「男」に対して「女」、「支配」に対して「被支配」、「差別」に対して「被差別」、等々を一括して「他界」と呼んでいるのである。

ここまで意味を拡大してしまうと話はただただ横辷りしていくのみで終盤は現代社会や都市の単なる批判に陥る。たとえれば「右翼」に対する「左翼」といったところ。行動派の立松氏から想像力が枯渇して盗作騒ぎを起こすことになるのもなんとなくわかる。

また、ここでの小松和彦民俗学の役割にこだわるあまり男女の役割が逆転したり曖昧になったりすることを「悪しき平等主義」と言ってしまっている。立松和平バイセクシュアルを否定的に理解している。「他界の力が弱くなってくると、男も男を演じなくていい、女も女を演じなくていいというふうになってくる。現実にそうなってきてると思うんです。(……)灌漑施設ができて、コンクリートでびしっと堤防ができてね、上流にダムができる。水が管理できてくる。田んぼの草も除草剤をまけばいいというなら、男と女の役割がどんどん壊れていくと思うんですよ。でも、けっして壊れきっていないわけです。中途半端にある。バイセクシュアルとか、変な現象でそういうのが噴出している」

 

それはそれとして語り出しは美しい。

【立松】僕らは現代に生きていても、他界に囲まれている。いくら科学が進歩して、いろいろなものが人間の側に引きつけられても、引きつければ引きつけるほど、また他界も拡がってくる。認識とはそういうものじゃないかと思うのです。

 

【小松】できるだけ楽をしたいという発想で成り立ってきたのが現代文化といったらいいでしょうか。苦労をしないで富を得たいというところでしょうが、これに対して民俗社会では、苦労をして働くことが富に結びつくという考えがあって、それが表現されていると思います。

 

時間的に死が想定されるのならば、空間的にも死の世界が用意されねばならないという指摘にハッとする。

「自分の家から歩いてちょっと行ける神社の脇にある沼でもいいし、淵でもいいし、川でもいい。いろいろなところに他界への穴があって、日常生活の場にさえそういう他界に通じる穴ぼこがぼこぼこ開いている。それと共存しながら人間が生きていて、ちょっとした誤りやはずみで、子供であれ、大人であれ、あっちへ行ってしまう」(小松)

【立松】僕らが何でもなく突き抜けていく空間が、たかだが五十年前には深々とした闇の中にあって、その闇は追剥ぎがいるくらいに豊かだったと思うんですよ。鉄の箱に入って十份で突きぬける空間は貧しいんだ。

立松和平と山。「山の地形はいつか見た景色ばかりでできてるという不思議な世界ですよ」

「山へときどきキノコ採りに行って迷うんですよ。小さな山に入ってもね、地図で見るとなんだこんなところかというようなところで、歩いているうちに出口がなくなる」

「残る者も 一つ所におられん者もおる それだけのこっちゃ」

神田ごくら町職人ばなし 〈一〉 (トーチコミックス)

坂上暁仁『神田ごくら町職人ばなし』。ナレーションや説明台詞に頼らず、絵によって見せる。第1巻の前半は、「コミック乱」掲載の一話完結型。ミニ番組のくっきりとした切れ味で「桶職人」「刀鍛冶」「紺屋」「畳刺し」。畳刺し以外の職人は女性だ。ページ数の幅もあるけど、「紺屋」に描かれた人物の迷いと解決が短編らしくて小気味好い。「畳刺し」は吉原の畳の張り替え、花魁と若い男の職人という取り合わせが落語のようなユーモアを生む。

後半は「トーチweb」に移籍して数話かけてのドラマとなり、熱くてしかも俯瞰のできる遠大な魅力が出てくる。「左官」。隠居が語りはじめるのは百年前の左官のこと。

アトリエ乾電池の充実。

劇団東京乾電池『牛山ホテル』観る。作・岸田國士、演出・柄本明

どえらいものを観た。緞帳におおきく「仏領印度支那のある港 九月の末 雨期に入らうとする前」とさいしょのト書が縫いつけてある。リーフレットにはこれまたおおきく岸田國士の言葉が印刷されていて、

〈『この作品を書いたのは、昭和三年(一九二八年)の暮れで、私が仏領印度支那に渡つたのが、それより十年前である。

私はほとんど無一文でフランス渡航を企て、幸ひ香港で臨時の職を得てこの未知の土地へひとまづ落ちつくことができた。滞在わづかに三ヶ月であつたけれども、この東洋の植民地における日本人の生活の印象は、私の脳裡に深く刻みつけられた。孤独な放浪の旅と、陰鬱な南方の季節と、民族の運命に対する止みがたき不安と、これらが一体となつて、この作品の基調を成してゐるものと思はれる。』〉

と、開演前からじゅうぶんに演出されている。異国の匂い、だが幕が開けば夕暮れ、三人のしどけない女。襦袢に腰巻、あるいは浴衣としっかり日本をもちこんだ妾たちの色気が凄い。

主演のさとに佐々木春香。妾の一人やすには太田順子。ホテルの養女とみに鈴木寛奈。

舞台装置、小道具もリアリズムでしっかりしている。場面が五場あることを懸念していたが、事前に上演中緞帳が下りることを聞いて、さらに期待が高まる。小手先の、抽象的な演出はしないらしい。

印度支那で長く働く男たちは総じて日に灼けている。日本から赴任してきたばかりの三谷(土居正明)は色が白い。リアルである。

かと思うと、酔った水夫の顔は喜劇的に真赤に塗られ――これは〈仏蘭西の水夫〉を日本人が演るためでもある――硬軟織り交ぜた演出がみごとなのだ。

〈別居せる真壁の妻〉〈猶太系の仏国女、かなり贅沢ななりをしている〉ロオラ(竹内芳織)も俳優が日本人であることが目立たぬように暗がりに立つ。

 

舞台美術がきちんとしていて、演出の目が隅々まで届いている。そのうえで俳優たちは基本の声量、滑舌がみごと。関係性に萌えるとういうような副次的な感動でなく、ただただ眼前の舞台に圧倒される。

序盤に登場する写真師・岡(山肩重夫)は、さとに「男の真心」を説く。グッときた。演技が出来ているから、おずおずとした純情というものも、観客にばっちり届く。

しかしそれは妾としてのさとを否定しかねない。

岡  必要な時は、金で縛つて置く。用がなうなれば、金をやるから出てゆけ。これが男の真心たいな? 成程、そのお蔭で、あんたは、五年の年期を三年あまりで済ますことができ、その上嫁入りの支度金まで持つて、お父つつあんの傍へ帰れるて云ふかも知れん。しかし、それがなんたいな? あんたは、ムツシユウ・真壁と、さういふ風に平気で別れられるぢやなかですか。

さと  平気……? どうしてそぎやんこついはるツとな?

さとは真壁(鹿野祥平)と別れてこの地を発つことになっている。それを周りが遠巻きに、ああだこうだと言う恰好だ。

ホテルの女将・牛山よね(西村喜代子)。真壁の下で働く鵜瀞(西本竜樹)、島内(岡森健太)。金田洋行の主・金田(杉山惠一)。納富(綾田俊樹)。三谷夫人(重村真智子)。

三谷夫人の突発的な笑い、階段を駆け下りてくる真壁といった盤面を引っくり返す劇的振る舞いにも興奮した。

出演者はほかに工藤和馬、本田彰秀、鈴木美紀、矢戸一平、前田亮輔。

レオとルミとダーウィンと。バズとジェイとニースと。

ダーウィン・ヤング 悪の起源』(演出・末満健一)観る。主演はWキャスト。大東立樹のほうを。

九つに階級分けされた街。60年前の暴動、あるいは革命がいまも話題になる。舞台は、200年続く寄宿学校。学校のそとでは、謎の死を遂げた少年の30回目の追悼式が行われている。

原作はパク・チリの小説で、ヤングアダルトに分類されるだろう。現在、30年前、そして60年前それぞれに16歳だった者たちの青春が描かれる。題名や、舞台のポスターはおどろおどろしいが、それを超えるきらきらがある。

ダーウィン・ヤング(大東立樹)と友達になるレオ・マーシャルを演じたのは内海啓貴。非常に良かった。大東立樹との相性も好い。おおきく、あっけらかんと男性的なレオは、かんたんに権力を握り得る身体だと自覚しているがゆえに反骨なのだった。

少年としての華がありながらもポジションをみつけられずふわふわとしたダーウィンからぐいぐい、さまざまなものを引きだしていく。ダーウィンの《悪》がヒロインでなくレオに向かうのも、それを容れるようなところがあったから。

大東立樹のダーウィンから受けた印象は《無垢》だ。『小公子』や『星の王子さま』をおもわせる透明性。独りで悪に染まるわけではない。

ダーウィンは、ボーイフレンドにもガールフレンドにも恵まれている。ヒロインのルミ・ハンター(鈴木梨央)は「探偵」として「助手」のダーウィンを引っぱりまわす。

ルミの叔父にあたるジェイ(石井一彰)が30年前、しんだ。そこにのこる不審な点をルミはさぐりつづけている。

 

この物語が連想させる映画は多いけれども(『第9地区』(2010)、『バットマン ビギンズ』(2005)、『華麗なるギャツビー』(2013))、ミュージカルとしての魅力に溢れていて、何度でも観たくなる。作曲パク・チョンフィ。台本と作詞はイ・ヒジュン。

心地の良い飛躍と展開。たとえば石川禅が16歳の少年として革命に身を投じる場面では、上官の信頼を勝ち得て、しかし利用されているだけなのを知り、弑するに到る――この一連がたった数分で描かれる。原作小説が長大であろうと、なかろうと、こういう選択の余地のない局面はいたずらに掘り下げる必要はない。

レオの父バズ・マーシャルが寄宿学校のドキュメンタリーを撮るくだりもスピーディだった。

楽曲は多く、台詞はコンパクト。無駄なく、心情が込められているから一つ一つにグッとくる。

「僕はね、あの女と結婚してもいいと思つてゐるんです。しかし、さうすると、あの女が可哀想ですよ。僕は、半年経たないうちに、あの女を棄ててしまふでせう」

牛山ホテル(五場)

岸田國士「『歳月』前記」という短文には、つぎのようにある。

「牛山ホテル」は昭和三年十二月、中央公論に書いたもので、天草の方言は友人のH君を煩はしてやつと恰好をつけた。
 読みづらいといふ批難をあちこちから受けたが、我慢して読んでくれた人からは、なるほどこれは方言でないといかんだらうと云はれた。
 登場人物にはモデルがありさうで、実は、はつきりしたモデルは一人もない。たゞ、場所だけは印度支那の海防(ハイフオン)といふところにとり、今もなほそこにある筈の「石山旅館」を舞台に借りた。曾遊の地ではあり、さまざまな印象が空想の手がかりになつてゐることはたしかだが、人物の一人一人に、実在の誰彼の面影はさらにないのである。

「作者の言葉(「牛山ホテル」の後に)」では〈この作品が私のほかの作品と違つてゐるところは、ある程度モデルがあるといふことである。もつとはつきり言ふと、私の過去の生活、経験、観察が、直接この作品の中に取り入れられ、登場人物の一人一人に、いくらかづつ実在の人物の面影をしのばせるものがある、といふことである〉と語られており、反対のことを言っているようだけれども、取材というほどのモデルはなかったと判る。殊更な変形、歪曲もなさそうだ。

 

岸田國士『牛山ホテル』。時間をかけて心理をあぶりだす。事件によって物語が推進するということはない。そこがいかにも旧来のリアリティを重んじる「文学」で、安心の読み味なのだ。退屈をかんじるひともいるかもしれない。

舞台は「仏領印度支那のある港」、「九月の末――雨期に入らうとする前」。ヒロイン・さとはこの地で事業に穴をあけた真壁の妾だが、その関係を解消し、日本に帰る船もすでに手配されたところ。日時をずらして真壁もいずれここを発つ。

それなりに困窮を免れてきたさとが日本に帰ることは正しいのか、どうか。そういうサスペンスである。

真壁には〈猶太系の仏国女〉ロオラという妻がいて、『舞姫』の如き愁嘆場はすでにさとから奪われている。真壁は真壁で『ファウスト』のメフィストフェレスや『ピグマリオン』のヒギンズのような誘惑者、教育者たることを望まない非−植民地主義的なインテリだから、さとに対して故郷に帰れとも帰るなとも言えないでいる。

他人をアテにしてもいいが、配偶者や血縁者に義理立てすることもない。そう真壁はかんがえている。

真壁  世の中の奥さんたちみたいに、男の苦労まで背負い込む女になつちやおしまひだ。女は、自分だけで背負ひきれないくらゐの苦労があるんだからな。

〈おれはお前を教育しようと思つたことはないが、お前はなかなか心掛がよかつた。しかし、いろいろ考へてみると、お前をまたお父つつあんの手へ戻すことは、なんだか、あぶないやうな気がするなあ〉

真壁  明日の船で、此の土地を離れるつていふことは、逃れられない運命かどうか。寧ろ、おれといふ人間がゐる為めに、さうなるのではないか。かう考へてみると、おれは、今、お前の運命について、もう一度神に訊ねて見なければならないといふ気がし出した。――おれが神といふのは、お前の本心だ。

 

さと  そぎやな云ふとつても、あん人ん気持から云へば、わしば国に戻したかつだもね。国に戻つたてちや、わしが仕合せになるとは思つとりやせんとなるばつ。そツでんが、やつぱ、わしば国に戻した方が安心すツとたあ。そるが、わしにやわかツとだもね。

やす  そらあ、あんたん、そぎやん思ふだけたい。あん人が安心しうが安心しみやあが、あとんこたあ、どうだツたツてちよかぢやなツか。あんたんこぎやんしたかて思ふこつば、させてくれしやがすれば……。

あるいは、さとにはじぶんがドラマから切り離されているという気があるのかもしれない。