大漁、異漁。耀

タイトルは タトゥーのようなもの

永瀬廉  「平野紫耀とは『戦友でしかない』」

non・no(ノンノ)2019年8月号

『ノンノ』2019.8。King &Prince目当てで買ったのだけれど、雑誌としての充実、旬をピックアップする巧さが先ずある。

旬のひと。kemio。ノンノモデルたち。ふわふわと、謙虚である。モデルたちが「最近のカルチャー活動」として紹介するアーティストや小説、マンガなど、なるほどなあと得るものばかり。

 

King & Prince。メンバーに対する、それぞれのコメントの凄さ。蒸留されたドラマティックなことばたち。

平野紫耀が、岸優太のことを「おじいちゃん」。〈おじいちゃんって、機嫌がいい時と悪い時の差が少ないイメージがあるんです。いつもほのぼのしてる岸くんは、まさにそれ! 好きな子の前ではどうなるのか、見てみたいな〜〉

岸優太は平野紫耀について「メリハリがすごい」、〈オフの時は思いっきり遊ぶし、仕事になるとちゃんとスイッチが入る。本人はずっと自然体でいるつもりだと思うんですけどね(笑)。そこがすごいなぁと尊敬してます〉。岸にとって永瀬廉は「真っすぐ」。〈純粋できれいな心を持ってる人。好きなことはとことんこだわるし、反対に興味がないことは本当に一切興味がない(笑)。そういう嘘のない姿が見ていて気持ちいいんです〉

神宮寺勇太が永瀬廉を「健全な男の子」と言っていて、深い。

〈学生の時に言われた言葉たちは本当に尊いのだ〉  さいあくななちゃん

芸術ロック宣言

トークライブ「芸術ロック公演」(ワタリウム美術館、オン・サンデーズ)行く。『芸術ロック宣言』の現代芸術家・さいあくななちゃんと、装丁を手掛けた川名潤によるイベント。あまりに率直で、何度も胸を衝かれた。

さいあくななちゃんはこの本に命を懸けていた。「芸術」も「ロック」も、ななちゃんにとってたいせつなことば。しぬ気でこの本をつくる。そういう熱量を芝居がかっている、キャラクターじみたものとして受けとるか、ほんとうのこととして容れるのか。

出版に対して自由なDLEパブリッシングだったためにうまく行ったのかもしれない。いや、うまく行っていなかったのだ、『芸術ロック宣言』は完成せずに延期していた。

一昨日の入校日にもう間に合うのが難しいと編集の方に言われました。彼に対して「ちょっとありえないです、ショックすぎて言葉がでませんでした」と責めたラインを一通送ってしまい、家の壁を3回殴りました。壁がへこみました。27歳のロックスターの夢しょっぱな破れる。負けっぱなしだな本当に、私の人生ってやつは。私はいつも負けっぱなし、情けない。太郎賞があってなんだかんだバイトもせずに一年生活できてたけど、賞の喜びや栄光なんて一瞬で、それからはこれ読んでくれてる人もそうだと思うんですけど、負けたり叶わなかったり相変わらずの日々が続いてます。

 

一緒に仕事をしてくれてる人を前に1年間怒ったり、泣いたり、喜んだり、いつも自分は絵にしか感情がうまく吐き出せないので、ここまで喜怒哀楽を人の前で吐き出す自分にびっくりしました。時には会議で机を叩き割りそうになったり、血も涙も何度か流れ、こういう私でもわかってついて来てもらいました。

 

いつも「負けた」と思った時に、「よし、いつかの一発に絶対するぞ。」と思うことが多くて、一昨日感じた「負け」を一発にするのは絶対にこの本での一発でなければいけないと思います。

著者と、デザイナーのあいだに編集者が入る。それがふつうのやりかただけれど、「通訳」が介在していてはラチがあかない。それでさいあくななちゃんは、川名潤と「合宿」することにした。

 

さいあくななちゃんはこれまでの作品2000点のうち、500点くらいはこの画集に入れたかった。

川名潤が本の仕事を好きなのは「手を入れる面積がデカい」からだった。

 

川名潤にとって本と向き合うというのは「地味」なことだが、ななちゃんにしてみれば「キラキラ」。どちらも正解。ことばによって、ひとつのことがたくさんの方向に散らばってしまう。

それをへたに「通訳」するとディスコミュニケーションが加速する。どんどんまずいことになる。「合宿」した。一気呵成に仕事した。そのなかで、生まれる雑談。固有名詞がでる。好きなのは。たま。ブルーハーツ大竹伸朗草間彌生

ふたりして好きなものがあった。あいてを理解しはじめた。

 

さいあくななちゃんは、この本の完成でひとまずの到達をみた。正直、感覚を小休止させたいところだろう。そこへ川名潤が、敢えて二冊目の話を振る。「一冊だして満足して、それきり音沙汰のない作家はいっぱいいる」

川名潤はやりきってなどいない。今作はマゼンタを蛍光ピンクに替えた。つぎは、潤沢な予算で五色刷り。マゼンタも蛍光ピンクも入れて、さいあくななちゃんの作品がもつ本来の「重さ」をだす。

 

さいあくななちゃんとにかく熱い。真面目なのだ。作品をすべてエクセルで管理していたり、対談に備えてメモを作成していたり。

一対一で、きちんと届く。だから本をひらいている時間、キラキラする。

「ロック」は想いを肯定する、ひとを元気にするとさいあくななちゃんは言った。「しね」ということばでさえも、ひとに前を向かせる。それが作物のもつ力。

多数派で多数が好きなものを作り上げてそれが売れることもわかっている、褒められることだって、人間関係円滑にやれることだって、7年目だ。ずっとやっているのでとっくに「成功」するための「近道」に気づいてしまっている。余計なことなんて言わなきゃいいのに。知ってるよ。「死ね」も「死にたい」も言わない方がいいことなんて。しかしだ、自分自身を生きるというもっともシンプルなものをやるものの美しさに人生が触れてしまった自分がいる。

〈あそこにも ここにも しずかに しずかに しんでいる せみ〉

なっちゃんの なつ (かがくのとも絵本)

伊藤比呂美 文、片山健 絵『なっちゃんのなつ』。

ともちゃんちに あそびに いったら

だれも いなかったので

なっちゃんは ひとりで かわらに でかけました

書きだしから、やられる。はじまっている。詩は、こどものつくるぼうけんものがたりに近い。

省略もあるが、足し算もある。話をつぎつぎ順接でつないでいく。事実が溢れていく。生命力。

それが《好き》というものだろう。〈なっちゃんは くずの つるが すき〉、〈なっちゃんは ひまわりの はなが すき〉、〈なっちゃんは あおさぎが すき〉とえがかれる。どれも理由は感覚的だ。土地の匂いは異なるけれど、宮沢賢治だ。

夕立ちも。

「わたしの名前は『病気』です」

リオフェス2019・吉野翼企画『疫病流行記』(北千住BUoY)を観る。

寺山修司、岸田理生の共作である『疫病流行記』。《見世物の復権》という言葉に倣えば、ここでは《疫病》の復権が目論まれた。流行りの病いを隠喩として呼びこむのでなく記憶、潜んで在るものを挑発する。

陸軍野戦病院。トレンチコートの刑事。船。南方へのあこがれ。羅針盤潔癖症。官能。祝祭と犬。

生活感情に根ざした小話の断片と、《疫病》の起源。寺山修司の演劇は、サスペンスと解体にあるだろう。

終盤ちかくに《疫病》及び《俳優》や《台詞》についての謎ときがはじまる。このとき登場人物たちはメイクを落としはじめ、私服にもどっていくのだけれど、これが先日観た『化粧二題』(井上ひさし脚本)と響き合って滅法おもしろかった。

『化粧』の舞台は大衆演劇の楽屋である。その楽屋で目を覚まし、鏡のまえという体で、じぶんの顔を見ることなくメイクを仕上げていくという演劇的な(観ることの)スリルがあって、その逆もまたドキリとするものだ。井上ひさしはそれを物語に乗せるが、寺山修司は蕩尽のためにスリルを用いる。物語から物語性をうばうのである。方法はちがうがどちらの芝居にも《自己発見》なるカタルシスがある。

 

演劇や、情報や、生活のもつ伝染性を肯定的にえがく。秘匿することに意味はないのだから。

「母さんを困らせて、じぶんが困っている」

the座 44号 化粧二題(2000) (the座 電子版)

ことばにできるような、はっきりした理由があるわけではなかった。井上ひさしの『化粧』を観なくてはとおもった。やっていた。紀伊國屋サザンシアターで観た。

『化粧二題』。「化粧」という一人芝居を、有森也実内野聖陽がそれぞれ演じる。〈合わせ鏡〉の如き、母や子の独白。

休憩なしで1時間35分だから、コンパクトなものだ。

子を捨てた母、母に捨てられた子。どちらも、「いま」は大衆演劇の座長である。舞台は幕開き前の楽屋。座員たちも、鏡台も存在していない。いないにんげんをあいてに会話を繰りひろげるのももちろん大変だけれども、観客の想像力に委ねることもできる。凄いのは、おおきな鏡台なしに舞台用のメイクを仕上げていくところ。戯曲で読んでもおどろくし、生で観ればゾクゾクする。現実と虚構を行き来する劇的なダイナミズムが、実験的手法でなく、しっかりと物語におさまっていて、そこも魅力だ。

舞台上の物語が解体されることはないので、座長の五月洋子(有森也実)、市川辰三(内野聖陽)の語る自分史や培われた持論の虚実に観客の眼が留まる。たんじゅんな狂気や良識とはちがった人物がいるのだ。

女座長の一人芝居、単体としての『化粧』(二幕)は戯曲で読めるが、さいしょのト書きに〈彼女自身が信じているところによると、彼女は、大衆劇団「五月(さつき)座」の女座長五月洋子、四十六歳〉と、狂気は決定づけられている。その顕在化と共に化粧もおかしくなっていって、幕。

その残酷さも愛しいけれど、〈自己発見〉として書き改められたのが『化粧二題』。『the座 44号 化粧二題(2000) (the座 電子版)』にこうある。

作者の頭の片隅に住みついている批評家が、次のように厳しく難詰するのも常でした。

「貴様は、女座長の自己発見の瞬間を書こうとしたのではなかったか。二幕劇にするために、女座長を狂女にした途端、自己発見という主題は消えてしまったのではないか」

 

     井上ひさし「前口上」

楽屋で寝ている女座長。はだけた浴衣、有森也実の太ももから『化粧二題』ははじまった。

にんげんの色っぽさ。そうではあるがキリキリしたところ。

狂気はなくなった。しかしある種の閉塞感がのこる。劇場にながれる歌謡曲、そとの工事やクルマの音。たいていのひとの生活はこのようなものだろう。いくらかのノイズと、疎外されたような、それでいて全能感ある日々。

おもうようにはならないし、責めたぶんだけ責められる。ひとびとはじゅうぶんにくるしい。

だから〈自己発見〉だし〈合わせ鏡〉なのだ。論理で観客を追い詰めない。俳優の喜怒哀楽に近づいてもらう。そしてその一人物が前へと進むさまに、魅入らせる。

有森也実はなまなましくて、好かった。

内野聖陽の良さはくっきりとカリカチュアした演技法。それで声や顔の良さが際立つ。戯画化には弱点もあって、いつでも笑いが怒ってしまう。なかなかシリアスにもっていけないと観ていたけれど、誇張されたキャラクターとして市川辰三を演ったから、ラストの母恋い、男性的な甘えが綺麗にでたのだろう。

後味の良い舞台だった。

〈トリックのセオリーは 既に出尽くしている 手品業界と同じで 後は「応用」と「新素材待ち」だ〉

マイホームヒーロー(7) (ヤンマガKCスペシャル)

『マイホームヒーロー』との出会いは7巻の表紙。きれいだなー、かっこいいなーとおもって読みはじめた。

6巻までの表紙はおじさん(主人公)で、だから手に取る機会もなかった。

マイホームヒーロー(1) (ヤングマガジンコミックス)

山川直輝・原作、朝基まさし・漫画の『マイホームヒーロー(1) (ヤングマガジンコミックス)』。

鳥栖哲雄 47歳

おもちゃメーカーの営業職を

やっている

 

趣味は推理小説

読むことと書くこと

ネットの小説投稿サイトに

10年前から投稿しており

計50本の作品は平均100件

近い閲覧数を記録している

 

まぁ評価は中の中だ

マチュアの人生。娘と妻。家族がいて幸福だ。ところが「ちょっと探偵ごっこをやった」ために殺人を犯すこととなる。あいては半グレ組織の一員だ。たちまち嗅ぎつけられてしまう。

逃げなければならないし、家族を守らないといけない。追われる状況が物語を疾走させる。

 

現実世界に酷似した舞台設定であれば、書き手の人生経験がモノを言うだろう。若者に書けるリアルは青春一つきり。それは永遠や瞬間に属しているので、なかなか物語にならない。

しかし若者の、なにもかも持て余した時季は佳い。多彩な登場人物たちに囲まれた劇的状態ならば衝動や計算も物語になる。『マイホームヒーロー』はエッセイ的青春でなく、血の匂いのする物語があちこちから湧き出でる。

どんな人物もドラマを抱えているものだ。だから衝突する。喧嘩になる。その当たり前を手際良く描いて快い。

僕がこれまで書いてきた

50作のミステリーに

出てくる殺人犯たちは‥

 

一体どんな気持ちで

いたんだろうな‥‥?

 

一度も‥‥

考えたことがなかった‥

黒白(こくびゃく)。加わるのは赤。

舞台『黒白珠(こくびゃくじゅ)』観る。シアターコクーン

チラシの「あらすじ」を読むかぎりでは大江健三郎中上健次えがく第一次産業の男の野心や精力、恥辱に失墜といったものを想起したが、そうではなかった。時代設定は1990年代、佐世保の真珠をあつかう男。〈大地は知人から「真珠の養殖業から手を引くので会社を買い取ってくれないか」という話を持ち掛けられていた。バブル崩壊後、景気は回復していない時節だったが、養殖から販売までの一貫経営の夢を抱き“生涯最後の大博打”とその話に乗る。しかしその年の赤潮被害で目論見は大きく外れ、会社は倒産の危機を迎える……〉(あらすじ)

“産めよ、増えよ、地に満てよ”というかたちで、野心は神話的繁殖と容易に結びつく。そこに若い兄弟が登場すればカインとアベルとなる。パンフレットにはまさにそのことが書かれていた。

〈今回ご覧いただく舞台は、プロデューサーから「長崎を舞台に『エデンの東』を書いてみませんか?」と言われて始まったものでした〉と脚本の青木豪「ごあいさつ」にあって、チラシの「あらすじ」がするりと呑めた。

ところが実際の舞台はこのあらすじと異なる。家族や純愛に焦点を当て、ビジネス面を大幅に削った。だからこそひとつの仕事をつづけられない長男・勇(松下優也)のだらしのない不器用さや、東京にでて進学、就職活動と見たところ順風満帆な双子の弟・光(平間壮一)の働くこととの向きあいかたがくっきりと浮かんでもくる。

みごとな脚本だとおもった。休憩を入れて2時間30分に収まる舞台で『エデンの東』は無理だろう。プロデューサーの希望を容れつつ物語をスリムにする手腕。俳優たちへの信頼もあってのことだ。

河原雅彦の演出もそれに適っていた。役割をきれいに分担させている。松下優也と平間壮一は感情のままにうごく。そのうえで、平間のあたえられた光役のほうがふくざつで大変だったろうとかんじたけれど。村井國夫、風間杜夫には《後悔》と、それでも生きる《つよさ》を。コミックリリーフに、フランス料理店「ラ・メール」の店主を演る平田敦子、軽妙な占い師・藪木の植本純米。

 

勇と光の父である大地を演じた風間杜夫が凄い。いま、風間杜夫を観ることの仕合せ。なにもなさそうで、なにかある。ある瞬間にいきなり辷りでてくる心の抽斗、というのは若き日の『蒲田行進曲』からあった資質だけれども、日常生活に長けた平平凡凡たる中年男にもそんな哀しみがあるとおしえてくれる。

村井國夫演じる須崎のしたたかさ。純子(高橋惠子)の孤独。

勇のガールフレンドに清水くるみ。須崎のホームを手伝う沙耶に青谷優衣

 

松下優也は真っ直ぐを演じて、かしこかった。

パンフレットには〈“馬鹿”ということに話を戻すと、たとえば上司や先輩に怒られても言い返さず、でも自分のやり方は曲げない人っているじゃないですか。なにも言わないから「なんなんだ、こいつ?」と馬鹿みたいに思われがちだけど、本人は理由があるから信念を曲げないんだと思う。勇もそういう人なんだろうし、頑固なんだと思います〉

〈このお芝居には集中して聞いていただきたい部分が結構あるんです。そこがきちんと伝わるように頑張りますので、気持ちを途切れさせることなくご覧いただけたらうれしいです〉と。

 

サスペンスだから、ストーリーに踏みこむ部分は避けるが、とても印象にのこった台詞。大地(風間杜夫)の述懐。

暗くなったら負け。

おとこだけの所帯、生活、就労のもつ重苦しさをやり過ごすための方途だ。男子アイドルのキラキラが美しいのはこの《暗くなったら、負け》を判っているためだろうと、やや逸脱のような、解きはなたれた気持ちで劇場をでた。