大漁、異漁。耀

タイトルは タトゥーのようなもの

〈どんなに努力しても、差別化されていないものは、お客さまから支持されず、競争に勝つことはできません〉

「ホットケーキの神さまたち」に学ぶビジネスで成功する10のヒント

〈Part1では、私が実際に訪れたお気に入りのホットケーキの名店を紹介しました。気が向いたら、ぜひお近くのお店を訪ねてみてください。

たんなるガイドブックであれば、それでおしまいなのですが、そこで終わらないのがこの本の変なところです〉

遠藤功『「ホットケーキの神さまたち」に学ぶビジネスで成功する10のヒント』。「手づくりのホットケーキを供する個人経営のお店は、首都圏にせいぜい40店舗ほど」という。ワードをかさねていくごとに絞り込みされるかたちの文章。ここで紹介されるのは東京、神奈川、関西あわせて31店。ほぼ紹介されているといってもよい。

〈──ホットケーキという一見ありふれた食べ物でも、個性を生み出すことができる。

私にとっては衝撃的な発見でした〉

それぞれの店からストーリーを引きだす。定番の店からはじまって、スイーツずきに愛される店、サブカル的魅力に溢れた店と、並びが凄く、夢中になった。

「美味しい」にしても「美しい」にしても、「そこそこ美味しい」「そこそこ美しい」では、やがてお客さまは、ほかに逃げてしまいます。

成功のヒントは美しさばかりでないけれど、美しさについて語られているのが、好かった。〈「美しい」は「商品価値」の一部であると同時に、「経験価値」にもなりえます〉

 

けったいな好著である。そのなかの、美しさといくつかのストーリーにやられて読了。

〈激しい愛は、理性のカケラも残さずに疾走する〉  『マクベス』

シェイクスピア 愛の言葉

「はじめに」と「おわりに」が率直だと嬉しい。まちがいなく心にのこる読書となる。

小川絵梨子『シェイクスピア 愛の言葉』。対訳の、引用集だから「はじめに」「おわりに」を紹介すると魅力のすべてをならべてしまうようなものだけれども、それくらいで褪せるわけもない。

〈今回の『シェイクスピア 愛の言葉』の作業に当たり、彼の作品に改めて触れました。彼の作品を通して読むなかで、これまで学校や仕事で携わった時よりも、作品を素直に受け止め、楽しみ、考えることができたように思います。以前は、もっと何かを感じなければ、何かをわからなければ、と気負って作品に触れていたのかもしれません〉(はじめに)

〈直訳、意訳、という言葉があるように、翻訳には何種類もあります。基本的に翻訳は言葉を訳すものだけではなく、その言葉の意図や背景となる文化、また語り手の人様なども訳し、受取手に渡す必要があるでしょう。ですが、何を目的に、誰を対象にして訳すかによって、原文からどの要素を選択するかは変わってきます。ふだん私は舞台の台本を翻訳することが多く、上演台本の翻訳の際は、翻訳の受け取り手の代表格である俳優たちの存在を想起しながら作業をしています〉(おわりに)

 

愛に見いだすもの、もとめるものはさまざま。たとえば。

ああ

好きな人に会いに行く道は、学校帰りの生徒の道。

好きな人と別れて帰る道は、学校に向かう生徒の道。

 

    『ロミオとジュリエット

 

君も恋愛中なんだな。

よかった、いい恥かき仲間ができて!

    『テンペスト

 

「でも」は嫌い。

君のことは好きだ、でも─

気持ちはうれしい、でも─

一緒にいたい、でも─

「でも」なんて大嫌い。

「でも」はまるで、朝、死刑執行を伝えに来る看守の足音。

 

    『アンソニークレオパトラ

 

どんなに清楚で純粋であろうとも、

女である限り、世間の中傷は逃れようがない。

 

    『ハムレット

「あの子は、おしまいの気分が好きだった」

少年王者舘『1001』観る。作・演出、天野天街

新国立劇場・演劇芸術監督となった小川絵梨子が招聘した。1978年生まれの小川絵梨子が、1960年に生まれ、1982年に少年王者舘を旗揚げした天野天街を呼びこみ、これまでとはちがった客層に触れさせる……。

 

『1001(いち・ぜろ・ぜろ・いち)』は、タイトルに先ず『千夜一夜物語』を、さらには澄んだ無限の郷愁が稲垣足穂一千一秒物語』をおもう。いくつものばめん。ことばあそび。

さいしょの印象的な台詞は「手も足も、散り散りになっても」。すこしずつ状況を変えながらばめんを反復させるので、台詞もこまかな調整がほどこされて「手も足も、バラバラになっても」と。こちらのほうが具体的で尋常な、現代に通ずる日本語だ。

「バラバラ」と「散り散り」がそれぞれべつのことばを引きずりだすために使い分けられるのだけど、事物を観念へとずらす神話のような美化作用もつ「生命」の「散り散り」は、不穏であり悲痛だった。『1001』がえがく少年(≒幼年≒青年)の夏の日は《戦争》だった。

劇中──少年王者舘らしくもなく──反戦のメッセージがつよくなる。しかしそれは「反日」が「半日(…半分、日常)」と台詞で言い換えられたのと同様、「半分、戦争」という認識の提示だったろう。だからこそ、つい声がおおきくなったのだろうし、物故者たちを招くことともなった。三島由紀夫寺山修司、松本雄吉などの。

「英霊」や「祖国」は普通名詞のようでいて、文学的にはミシマやテラヤマの色が濃いことばだ。天野天街はせかいをふんわりとかたちづくるべくそうとう腐心しているだろうから、それらをけっして深追いしない。なにかが記述されているようで、観客のあたまのなかにしかないという寸法。

はっきりと二進法を謳ってもいる。「ある」と「ない」。「ある」ようで「ない」。「ない」かもしれないが「ある」。

本(…書物)の本分は見えぬが花。

出征が、家出や冒険とかさなる。時間を行き来する。やりなおすこともできるが、それでもぜんぶ喪失へとつながっていくのだろう。

 

死者の物語だった。いち(0)(夕沈)、一郎(1)(池田遼)、零(現人)(井村昂)、ゼロ(銀河)寺十吾)にその自覚はない。欲動の如きものだけはあるから、冒頭で一郎メフィストフェレスの如き山ン本(Alah)(月宵水)にねがいごとを言ってごらんとつけこまれる。役名のほとんどはプログラムに載っているキャスト表で確認するのみだが、この山ン本(さんもと)、どうしたって稲垣足穂「山ン本五郎左衛門只今退散仕る」を連想させる。

ランプの精として神ン野(jinn)(珠水)が登場するが、魔法ではなく「阿呆」のランプ。もっと魔神らしい面貌でなくてはと、賑賑しい描写をされる辺りは『古事記』。

 

『1001』は、やわらかかった。1は直線、0は円と見ることもできるが、線を引いて、対立する、乗り越えることをえらばずに、ただただつなげて、ふえていった。そのことにおどろいた。台詞としては「次回はきみと友だちになれるといいな」とか「まだ細胞分裂をする気があるのか、お前?」とか。細胞は、円い。

 

科白されたことばあそびを丹念に辿れば台本を復元できそうだ。どんなことを言っていただろう? 「なんて言っているのかなあ?」とあいてをふしぎがるばめんもあった。ヒラメだったかな。カレイだったかな。ラクダもバクもでてきたな。砂漠だもの。海の底だったのだろうか。夜は。

「最先端のトレンドが集まるだけでなく、日本の伝統文化も体感できることが東京の魅力ですよね」  京本大我

東京ウォーカー2019年6月号

平野紫耀の『東京ウォーカー2019年4月号』、Hey! Say! JUMPの『東京ウォーカー2019年5月号』と、つづけて買ったら習慣化した。なんの前情報がなくても、コンビニで表紙をチラ見するようになる。京本大我の、新連載。「東京和奏」。

おっとりした素直さ。ガツガツしていない。伊野尾慧のような化けかたをするかもしれない。

僕は金髪で色白だし、最近は舞台で西洋の貴公子っぽい衣装を着ることが多かったのですが、心は日本男児なのです(笑)。

そう、見目と心は分かれていて構わない。そこを一致させようとするセクシュアリティもあるが、あんまり拘るとタコツボだ。

東京ウォーカー』は良くも悪くも毒のない雑誌で、どんなおとこの子やおんなの子が泊まりに来ても、取っ掛かりがあったりする。

「この、けみおってやつ、このあいだゲイだってカミングアウトしてた」とか、

「谷口菜津子のマンガ、昔っから好きなんですよ。へー、本になってるんですね」とか。

しょうなんだあ、べんきょうににゃるにゃあ、なんてかれらにうなずきつつ、WEBで無料で摂取する現状を肌でかんじたり。

あくまのじてん。

ViVi(ヴィヴィ) 2019年 05 月号 [雑誌]

『ViVi』5月号にKing & PrinceのA to Z。ちいさな辞書。

「B」には「バカ(笑)。6人それぞれみんなバカ。キンプリを一言で表すならバカ」と永瀬廉。かれらは、岩橋玄樹がいるはずの空白をかならず意識させる。それはすごいことだ。不在であるとかんじさせずにやりすごす方法はかれららしくないのかもしれない。スルーしないし、ストレート。まっすぐに生きる。

そのまっすぐな、熱いところに岩橋玄樹が合流できたら劇的なことだ。中途半端な復帰では済まない。圧が高くて、困難だとはおもうけれども。

 

平野紫耀の感覚的なコメントがくすぐったい。

[Cancel] なんでこの言葉が浮かんだか? わかんないです。あ、でも最近食事の誘いをよく断ってる〉

[Ear] 耳が悪いわけじゃないんですけど、聞き間違いをよくします(苦笑)〉

[Ocean] 海のように大きな心が欲しいです〉

[Smile & Stoic] どっちも苦手! ストイックになりて〜!〉

「いつかその決めつけが、おまえを。大人になってから苦しめる」

『俺のスカート、どこ行った?』観ながら──脚本が若い、身体性をやや欠いている。性差や、年齢の描き分け。などとおもうけれども小説ではないのだからこれでいいのかもしれない。むしろもっと余白があっても良いのかも。

大倉孝二小市慢太郎荒川良々いとうせいこうといった達者なキャストと永瀬廉、道枝駿佑、長尾謙杜らおそろしくきれいなジャニーズの若き演技派によって舞台は成立している。

長尾謙杜君が好きで好きでこのドラマを観ようとおもった。オープニングで、変面よろしくマスクをつぎつぎ外していく若林(長尾謙杜)がもう愛しい。若林、いじめられっ子。光岡(阿久津仁愛)、不登校。ここには力があった。

この脚本は力能を誇示しない。創作物として、信用できる。

こいつ飛び降りて死んで、わたしがクビになったらめちゃんこ嬉しいんだって。死んでるのに。あんたは死んでるのに。

得してる奴ばっかり見るな。損してる奴も見ろ。

若林、スタート地点に立ちたいんだろ? 外したいって言ってたじゃないか、マスク。

新担任の原田のぶお(古田新太)を辞めさせるゲーム。参加を強いられた若林は、屋上から飛び降りるぞと脅迫する手で。それは狂言であるが実感を伴ってもいて。

生きていたくない。あるいは生きたい。冷静にツッコめば「死んでる」のと同じ。自信はゼロ。それでも「見るまえに跳」ばなくてはならない。

登場人物というのは、とにかく跳躍しなくてはならないわけで、そのときまでは、ネガティヴでもいい。

ドラマとしては「じぶんのなかにネガティヴなものを発見する」ほうが起伏に富んでおもしろいけれど、それは大人になってからの話。

『少年たち』

映画『少年たち』観た。美しかった。胸を衝かれた。

物語の理想としては、環境から切り離された個性によってドラマが展開するべきだろうとおもうけれども、少年という概念は飢餓感や孤独を呼び寄せずにはおかないわけで、映画らしくいくらか話の筋をみせるために事件がさまざま回想される。

それらも要約というよりは断面だったから、映画でありつつも舞台。とりどりの世界を詰め合わせたレビューの匂いに心がやわらかくなる。

序盤で「なんでみんな喧嘩ばかりするんだろう」と独白あって、もう、ここで泣く。ジャニーさんの世界観でしょう。それをジャニーズJr.全員共有できている。あたえられた歌や踊りに疑いをもたない。信じる。『ジャニーズJr.チャンネル』でSixTONESのグループ名改名ドッキリというのがあったけど、そこで松村北斗が「俺たぶん、一年半ガマンすれば慣れると思う」とすぐに受け容れたのが凄かった、あの感じ。

映画に合わせた回では京本大我が「ジャニーさんの想い」「タイミング」と言っていた。パンフレットの座談会もそう。

森本 毎回「少年たち」で初心に返ってる。

高地 そういう感じある。「少年たち」ってジャニーズの舞台では珍しく、自分たちでやりたいことを提案できる作品なんだよね。そういう意味での大きさは譲れないものがある。

田中 社長から「ユーたち、何を考えているの? 考えているなら教えてよ」って聞かれて、それがそのまま形になったりとかね。

ジェシー ジャニーズの舞台の中でいちばんリアルじゃないかな。ジャニーさんの経験もいっぱい入っているわけだから。

ジェシーの「仲間だろ」という科白もとても好かった。あれは唐突どころか再確認なのであり、エピソードやドラマの不足をみるのは恵まれたひとたちだ。

おなじ部屋になったら、仲間である。愛に飢えてシンプルな人生をもとめる感覚──いまだったらサイコパスと呼ばれそうな──、一宿一飯の恩義と一期一会の冷酷さを同居させた物語不要の少年性がリアルだった。これを理解できているジャニーズの子たちはやっぱりどこかアウトサイダーなんだろうともおもった。

 

京本大我、きれいだった。

西畑大吾にはテレビや雑誌とちがった男っぽさがあった。

ダンスパートにでてくる長尾謙杜を必死に見た。

渡辺翔太良かった。映画パンフ、プログラムでこの作品を「“歴史あるもの”と“初めてのもの”が一つになった」とコメントしていたのもみごと。

 

キャリアがあれば役と台詞を、そうでないJr.は顔見世として麗しいところという役割分担も成功していた。ばめんをスイッチさせる登場人物の一人、クロ(中村嶺亜)がでてきていきなりしぬのも印象的だったけれど、さいごのさいごでHiHi Jets美 少年らが登場し踊るのは夢のようだったから、観ていて大泣き。正直キラキラのかれらにもドラマを演ってもらいたかったし、もっと言えばいまより幼かったころの北山君や藤ヶ谷君がキャスティングされた世界を空想したりもした。そういう、ありもしないものを欲望させる豊穣さが映画『少年たち』にはあった。