大漁、異漁。耀

タイトルは タトゥーのようなもの

『あんのリリック』前編

ドラマW『あんのリリック 桜木杏、俳句はじめてみました』。脚本・荒井修子、監督・文晟豪。原作小説にいくつものドラマを盛りこみ、見ごたえがあった。

原作でも象徴的だった〈優しさはときにはみ出し桜もち〉の句がきれいな導入である。

桜木杏(広瀬すず)、連城昴(宮沢氷魚)。そしてすこし悪者のハゲボウズ(板橋駿谷)。それぞれつよい性格で、社会的な浮き沈みをあたえられる。

桜木杏と出逢うまでの昴はもがいていた。「言葉がでてこないんです。俳句も仕事も、以前より楽しめなくて」

学生時代に俳句の賞を獲っていたが、広告代理店勤めに入ってからの句は「企業のキャッチコピー」と言われ、つくった広告は「俳句もどき」と評される。どっちつかずの、にごった心のなかにいた。

ふたりを結びつける小道具に、はちみつ。杏を誘った句会で詠んだ昴の〈竜天に登りはちみつ入りジュース〉が官能的なだった。

いつからかラッパー・ハゲボウズのゴーストライターとしてリリックを提供していた杏。前編でえがかれるのは、ハゲボウズとの訣別。

 ハゲボウズによる「才能の搾取」を、連城昴は杏のぶんまで憤る。余計な義憤が若さである。若い世話焼きが若い隠者に絡んで飽きない。それが十代二十代の恋のドラマだ。

 

川を見るバナナの皮は手より落ち  高浜虚子

 

木の葉ふりやまずいそぐないそぐなよ   加藤楸邨

 

俳味のある俳優をキャスティングして魅力的。桂雀々田辺誠一ふせえり荒川良々山口香緒里、吉田ウーロン太などなど。

原作で引用された句のほかにも多数登場して、よかった。

海を去るをんなのはだし修司の忌

溶岩の湧き出るごとく躑躅咲く

飛魚よつぎつぎ難破船越えよ

春コートかがやくものを追へば旅

銀漢を荒野のごとく見はるかす

蜂蜜の小瓶に満ちる夏の日よ

夕涼み何も問はざる友やさし

〈柱も庭も乾いている/今日は好い天気だ〉

中原中也記念館の企画『今、読む、中也。』配信視聴。出演は伊藤比呂美高橋源一郎。ゲストに、第26回中原中也賞受賞の小島日和。

 

近代詩と現代詩がいっしょに入ってきた高橋源一郎の十代。田村隆一吉本隆明中原中也ランボー

深刻ではなかった。それらの一節を、深夜ラジオのように楽しんだ。授業中に同級生が耳打ちしてくる。「ああ、家が建つ家が建つ」。

キャッチーで実用的な断片。

伊藤比呂美は、中原中也の顔がよかった。それもある種の実用かもしれない。その詩は、季節を取っ掛かりにして理解できた。「『秋』がわかったらどんどんわかったの。次にわかったのが『曇った秋』」

 

中也の魅力は「どこまでいっても落第した、劣等生だったところ」。

 

詩でいちばんだいじなのは「声」だと高橋源一郎が言う。そのひとの出自、バックグラウンド。「その人がうたうんだったらどんな曲でも良い」

「声を出せるようになるために僕らは書いてる」

 

その声でどこへ行くのか。

若い小島日和に、高橋源一郎はおしえた。

「物を書いている人たちが行きたい場所は地獄」

〈典雅なるものをにくみきくさまらを濡れたる蛇のわたりゆくとき  葛原妙子〉

現代短歌 そのこころみ (集英社文庫)

何年もかけて読了。関川夏央『現代短歌 そのこころみ』。いい本だった。2月26日に二・二六の箇所を読めた。斎藤史

 

巻頭は「斎藤茂吉の最晩年と青年時代の中井英夫」。

短歌ほろべ短歌ほろべといふ声す明治末期のごとくひびきて

    斎藤茂吉

 

「生活即歌、と誰が言おうと、歌はやはり余裕の産物である。生きることに追われていたら歌などできる筈はない。『けもの』は歌なんか作らない。生きるためだけに必死に生きている、そういう姿を純粋で美しい、と思うのもやはりよけいな思いこみなので、実際は陰惨というに近い」(石川不二子『わが歌の秘密』)

荒れあれて雪積む夜もをさな児をかき抱きわがけものの眠り

    石川不二子

 

「『戦前』という時代の残照──中城ふみ子と石川不二子」の章ではめいめいの、なにかとの衝突。石川不二子は農場に入り、自然や労働と向きあった。

〈石川不二子の人生と歌のほうが、その克己と隠忍の理想主義において、また折り目正しい保守的態度のあらわれという点において、中城ふみ子のそれより戦後的というべきなのであろう〉

この指摘が凄い。中城ふみ子は病や恋を過激にうたったが、そこには〈戦前の中流家庭育ちのセンス〉、〈安定した平和な時代としての戦前への郷愁のトーンがある〉と関川夏央は書いている。

中城ふみ子中井英夫と衝突した。編集者としての中井英夫は苛烈だった。いまでいうパワハラ。「五十首詠」そして歌集のタイトルにもなった『乳房喪失』は中井が推したもので、中城ふみ子には抵抗があった。

〈ふみ子は「乳房喪失」の題名を過剰と感じたのであるが、彼女自身もその過剰さを十二分に内包していた〉

〈見舞い客には、マックスファクターの化粧品で入念に衰えを隠したあとでなければ会わず、ときに病室に美容師を呼んだ。たびたび外出して男性とデートした。彼女は、「切断」した乳房を補うために、日本でもっとも早くブラジャーパッドを使った女性のひとりとなった〉

 

〈七月上旬の気分のよい日、ふみ子は自分の「死顔」の写真を撮った。目を閉じてベッドに横たわり、顔の右に歌集を、左にオルゴールの箱を置いた〉

 

出奔せし夫が住むといふ四国目とづれば不思議に美しき島よ

    中城ふみ子

〈しかしふみ子は、高松への転勤を願い出た夫や子供たちとともに移住したのであるから、「出奔せし夫が住むといふ四国」の歌は実人生とは異なった「物語」である〉

灼きつくす口づけさへも目をあけてうけたる我をかなしみ給へ

    中城ふみ子

草はらの明るき草に寝ころべり最初より夫など無かりしごとく

    中城ふみ子

中城ふみ子登場直後、歌壇の異常ともいえる反発を体験した中井英夫が、寺山修司を選ぶにあたって慎重であろうとしたのは自然なことだった〉

 

「僕に短歌へのパッショネイトな再認識と決意を与えてくれたのはどんな歌論でもなくて中城ふみ子の作品であった。(……)

僕はネルヴァルの言ったように『見たこと、それが実際事であろうとなかろうと、とにかくはっきりと確認したこと』を歌おうと思うし、その方法としてはふみ子のそれと同じ様に、新即物性と感情の切点の把握を試みようとするのである」(『短歌研究』1954.12「火の継走」)

 

〈村木道彦は一九七七年、三十五歳のとき一度作歌をやめている。

彼はその頃苦しみ、焦慮していた。苦もなく口をついて出た二十二歳の作品には強い表現力があった。あざやかなイメージが切りとられていた。だが、その後の作品には生彩がない。辛苦が成果につながらない。自分を「発見」してくれた中井英夫の言葉、「君は短距離ランナーだ」が刺のように心にささる。

村木道彦は、その頃ひたすら歩いた。疲労が「強固な自意識の弛緩剤と化すまで」歩いた。人工的に「忘我」の状態をつくりだそうとした〉

〈村木道彦の復帰には、俵万智の登場が刺激のひとつとなった。村木道彦らの世代につきまとっていた「大仰な身振や、大上段に振りかぶった構え」が、俵万智にはまったくなかった。それは明朗な驚きであった〉

疲れてはふたへまぶたとなるときに、春 重重し 春 燦燦(きらきら)し

    村木道彦

 

奔馬ひとつ冬のかすみの奥に消ゆわれのみが累々と子を持てりけり

    葛原妙子

〈一九四四年秋、三十七歳の病院長夫人であった葛原妙子は、空襲の危険が迫った東京・大森山王から軽井沢の山荘に三人の子供たちを連れて疎開した〉

〈十六歳になっていた長女を除き、三歳から十歳までの幼い子供たちとの疎開生活では、食糧難と冬期のすさまじい寒気に苦しめられた〉

活火山の火口吸ひゆく雪片のあなさびしあなすさまじくもあるか

    葛原妙子

葛原妙子のことを読むと心躍る。そしてその歌。

葛原妙子が「わたしの短歌を育てた人たち」と挙げたのは斎藤茂吉、齋藤史、佐藤佐太郎、坪野哲久、前川佐美雄、塚本邦雄梶井基次郎の小説も。

それを書き記したのは死の二年前であり、ほかの歌人ならば歌集にあるはずの師への謝意を一度も掲げてこなかった。関川夏央は類推する。〈単独行の勇気を養うために、つとめて「倨傲」たろうとつとめたかのようだ〉

丘陵に葡萄樹立てり 翳せり 涸れたる地の臍帯のさま

    葛原妙子

 

出口なき死海の水は輝きて蒸発のくるしみを宿命とせり

    葛原妙子

ばりばりと頭髪を塩に硬ばらせ死海より生れきし若者のむれ

    葛原妙子

 

 

飯盒の氷し飯(いひ)に箸さして言葉なく坐(ざ)す川のほとりに

    宮柊二

さまざまに見る夢ありてそのひとつ馬の蹄(ひづめ)を洗ひやりゐき

    宮柊二

亡き柊二あらはれ出でよ兵なりし君がいくたび超えし滹沱河(こだがは)

    宮英子

 

あなたは勝つものとおもつてゐましたかと老いたる妻のさびしげにいふ

    土岐善麿

 

 

隊列に巻き込まれたる警官の逃れんとして脆き貌しつ

    清原日出夫

 

 

愛こめてどうか不幸であるように君無き春の我無き君へ

    吉野朔実

佐野朋子のばかころしたろかと思ひつつ教室へ行きしが佐野朋子をらず

    小池光

 

 

〈消費こそ善という空気が日本社会に満ちたのは一九八二、三年頃だった。恐れられた「第二次オイルショック」がこともなく過ぎ、それっ、とにわかに消費意欲のみなぎった感がある〉

内需拡大の高いかけ声のもとに一躍先端的職業と認知されたのが「広告屋さん」で、「コピーライター」もまた脚光を浴びた。というより「一行何百万の商売」という功利的な憧れの対象となったのだが、その憧れと欲望が短文文化の見直しと投稿文学ブームを呼びこんだ〉

俵万智の登場である。

大陸に我を呼ぶ風たずさえてミルクキャラメル色の長江

    俵万智

 

〈短歌形式は「最終的に自己肯定に向かう」と見切った寺山修司は、それが不満で短歌を捨てた。しかし穂村弘にとっては短歌の「自己肯定作用」こそが救いと映った〉

終バスにふたりは眠る紫の〈降りますランプ〉に取り囲まれて

    穂村弘

 

 

濁流だ濁流だと叫び流れゆく末は泥土か夜明けか知らぬ

    齋藤史

暴力のかくうつくしき夜に住みてひねもすうたふわが子守うた

    齋藤史

これが、齋藤史二十七歳。一九三六年の歌。

史の父、齋藤瀏は二・二六事件による下獄や大日本歌人協会設立の運動のために、晩年は孤立した。

明治大正昭和三代を夢とせば楽しき夢かわが見たりけり

    齋藤瀏

 

迂回という最短

のぼる小寺さん

『のぼる小寺さん』(2020)。原作は珈琲という名のマンガ家による。監督古厩智之。脚本、吉田玲子。

登場する人物たち、すこしずつはみだしている。オタクであるとか、いじめられっ子だったとか。

伊藤健太郎の扱いがおおきい映画ではあるけれど、皆を等分にピックアップしていき輝かせた。

特に魅力をかんじたのは倉田梨乃(吉川愛)。学校外のトモダチと遊び歩いてるたぐいの不登校だから、大人びている。

そうではあるが、岐路にいる。みんなとおなじ。迷いがある。

“小寺さん的な日常”のまわりでめいめいの立ち位置が変わっていく。傍観者の近藤(伊藤健太郎)。写真が好きな田崎ありか(小野花梨)。小寺さん(工藤遥)の影響を受けていちばん好きなことと向きあうようになっていく。

小寺さんは実際的で清潔。ひたむきで天然。エロスやタナトスを司るような女神ではない。みんなとおなじ、はみだし者だ。

ボルダリング部の男子には両角周、田中偉登、鈴木仁。

鈴木仁の凄さに初めて触れた。小寺さんを好きそうな、そうでもなさそうな四条(よじょう)くんの役。

 

距離感の未熟なかれらがつよく同性を慕うばめんも多い。これらも小寺さんと近藤の恋ごころ同様に淡い。

「なんだろうね……。弱虫なだけ、みんな。ちょっと成功して、忘れ去られるのが恐いの」

一度も撃ってません

「いま、崖っぷちにいる。その心理を自分で取材してる。そんなことも察しないでヨタ飛ばしてっと、ロクな編集者になれねえぞ、野坂」

「……野坂じゃないし。五木だし」

阪本順治監督『一度も撃ってません』(2020)。主演は石橋蓮司。出演に大楠道代桃井かおり岸部一徳佐藤浩市寛一郎妻夫木聡江口洋介豊川悦司、渋川清彦、新崎人生柄本明柄本佑ほか。

豪華なキャストだが、大仰にならず、しかし個性は発揮する。

脚本は丸山昇一。ユニークな人物たちの台詞は経験と取材によって練られているから、きちんと尊重されるし、少々のアドリブではビクともしない。

アドリブの甲斐がある脚本に、唸る。

 

冒頭は、パアパア喋る堀部圭亮と、その死。

そこから一転して石橋蓮司大楠道代。老夫婦の朝。こまごまとした日常である。

石橋蓮司が演じるのは二重生活者だ。町内では「元・作家」と言われていて、編集部の扱いも良くないが、ハードボイルド小説を書きつづけている。そしてそれは実際の事件と酷似している。ほんとうにころして、そのことを書いているのではないか? 編集者の児玉(佐藤浩市)が御前零児(石橋蓮司)を完全に無視できないのはそのためだ。

だが児玉から担当を引き継いだ五木(寛一郎)はドライで、物事の奥行や陰影がわからない。

五木は取捨選択をスムーズに行いたい。まだ知らない。人生において選択は苦渋に満ちたもの。

原稿を読んだ五木が御前に感想を述べる。

「率直に言って、あれノベルでもなんでもないでしょ。いやあ、ハードボイルドですら時代遅れなのに。もっと陳腐です。ただコロシの現場とそこに到るまでの状況や人物像を、延々と羅列しただけじゃないですか。売りたいんでしょ? 売れたいんですよね、もう一度? だったらもっと作者の感情を込めて情感入れて、泣かすか笑かすか、共感得られるか、一からかんがえなおして。モ・ノ・ガ・タ・リをつくってくださいよ」

辛辣に斬り捨てたつもりだろうが、大人たちはそんなところを何度もくぐり抜けてここにいる。オワコンなのかもしれないけれども、悪あがき。

「悪あがきを若いとき『やる気がある』と人は呼んだ」とか「ここ学校じゃねえっつうの」と科白する俳優たちが佳い。

生きるためには「ぶる」しかない。演じはじめ、つづけていくよりほかはない。

 

五木と対象的な若者に、今西(妻夫木聡)。二重生活を送りつつ、世間的な暮らしにあこがれてもいる。重たい生活に裏打ちされた快活と屈託が色っぽい。

 

俳味のある、綺麗な映画だった。

キザなようで、成立しているたくさんのやりとり。

「夜は酒が連れてくる」

「ううん。朝は蜆」

「これが善六先生の心意気」  『御神酒徳利』

渋谷らくご2月13日、14時の回。

出演は三遊亭好二郎立川談吉快楽亭ブラック柳家小せん

録画した落語の番組が溜まる一方なので、町の落語会を覗いているばあいでないともおもうけど、所属の異なる四人、立川談吉快楽亭ブラックもいる。これは聴かないと……。

 

二ツ目三遊亭好二郎。ふてぶてしくも、愛嬌がある。マクラで「おすすめの見方」としてその都度「さいごの落語会」とおもうのが好いと。

過去の誇張もなかなかで「西麻布は軽自動車が一台も走っていない」。

演ったのは『浮世床』の将棋のくだりまで。ドラマすくなく、人物の描写に終始する噺だから、むずかしい。にんげんのせかいのばかばかしさを適宜俯瞰しつつ熱演する必要があるわけで。

好二郎、ほかのところでも聴いてみたい。

 

立川談吉。好二郎のマクラで「お店でいうなら『ドン・キホーテ』」と評されていた。メロディアスでバラエティに富んでいる。そういう落語家だ。

マクラ。後輩のやっている「Clubhouse落語」や、自身の「テレワーク落語」について。

「テレワーク落語」は限定1名の予約物。電話ごしに落語を聴くという、凄いやつだ。先日は『つる』のネタ下ろしだったとか。

きょうは『阿武松緑之助』。あまりの大食らいで相撲部屋を追いだされた男の話。

「この世の飯の食い納め。名残り飯」なんて、さいごの晩餐のつもりで宿の飯を食いに食っていたら、あるじの目に留まり、相撲の親方を紹介してもらう。

そこからはトントン拍子。口跡の佳いファンタジーに、満足。

 

快楽亭ブラック六尺棒』。マクラと噺に時事、エロ入れて相変わらずのブラック節。

 

柳家小せん『御神酒徳利』も非常に良かった。立川談吉のマクラの「小腹が空いた」や「滝行」に『阿武松緑之助』のタダ飯、地の語りの「知っているのは演っているこの私だけでして」辺りが響いてくる。

「神頼みでもしてみよう。と言っても普段から信仰をしてる神様もあるわけじゃありませんでね。寒中、頭ッから冷水をかぶって三七、二十一日のあいだ、断食をして頭から冷水をかぶるという行にかかるんですが……」

お人好しだがうっかり者の善六が、女房の機転でニセ占いをすることとなり、どんどん話が転がっていく。

〈刑期は、三万年〉

アンドロイドは電気羊の夢を見るか?

朝、観ていた『魔神戦隊キラメイジャー』ではヒーローたちが猫にされた。猫となった充瑠(小宮璃央)は純粋で、敵であるはずのクランチュラ(声・高戸靖広)とも一時、甘やかな友愛が生まれた。おなじ作り手として、という説明があったけれども、かってに読みこめばその友愛はネコとネコのものだったろう。

 

そのアタマで観劇する。演劇実験室◎万有引力◎実験公演『フォークト=カンプフ検査音楽劇 プロメテウス ─伝奇仕掛けの俳優都市─』。ジョン(三好華武人)とイジドア(三俣遥河)に不良少年のバディが視えた。

今作はフィリップ・K・ディックアンドロイドは電気羊の夢を見るか?』の翻案でもある。バウンティ・ハンターのリック・デッカード小林桂太)、放射能都市の歌姫ルーバ・ラフト(小山由梨子)、教主マーサー(高田惠篤)、バスター・フレンドリー(今村博)といった面々。キップル化や電気動物、フォークト=カンプフ検査などのコトバたち……。

ジョンとイジドアは、ジョン・イジドアという人物を分割したもの。ピンボケとか、スペシャルと呼ばれる落伍者のかれ(ら)に『疫病流行記』の米男・麦男をかさねてしまう。跳ね回っているが、どこにも行けない青春の二人である。

終盤のデッカードとマーサーの対話のばめんで連想したのは、ずいぶん昔の記憶になるけれど海津義孝とサルバドール・タリ。舞台の縁(へり)で演劇論を科白していた。あの画。あの愕き。あの感動だった。かつての万有引力は演劇を壊した。それをまだ、どこかに蔵しているらしかった。

企画演出、飛永聖。脚本は手代木正太郎。