大漁、異漁。耀

タイトルは タトゥーのようなもの

「いつかその決めつけが、おまえを。大人になってから苦しめる」

『俺のスカート、どこ行った?』観ながら──脚本が若い、身体性をやや欠いている。性差や、年齢の描き分け。などとおもうけれども小説ではないのだからこれでいいのかもしれない。むしろもっと余白があっても良いのかも。

大倉孝二小市慢太郎荒川良々いとうせいこうといった達者なキャストと永瀬廉、道枝駿佑、長尾謙杜らおそろしくきれいなジャニーズの若き演技派によって舞台は成立している。

長尾謙杜君が好きで好きでこのドラマを観ようとおもった。オープニングで、変面よろしくマスクをつぎつぎ外していく若林(長尾謙杜)がもう愛しい。若林、いじめられっ子。光岡(阿久津仁愛)、不登校。ここには力があった。

この脚本は力能を誇示しない。創作物として、信用できる。

こいつ飛び降りて死んで、わたしがクビになったらめちゃんこ嬉しいんだって。死んでるのに。あんたは死んでるのに。

得してる奴ばっかり見るな。損してる奴も見ろ。

若林、スタート地点に立ちたいんだろ? 外したいって言ってたじゃないか、マスク。

新担任の原田のぶお(古田新太)を辞めさせるゲーム。参加を強いられた若林は、屋上から飛び降りるぞと脅迫する手で。それは狂言であるが実感を伴ってもいて。

生きていたくない。あるいは生きたい。冷静にツッコめば「死んでる」のと同じ。自信はゼロ。それでも「見るまえに跳」ばなくてはならない。

登場人物というのは、とにかく跳躍しなくてはならないわけで、そのときまでは、ネガティヴでもいい。

ドラマとしては「じぶんのなかにネガティヴなものを発見する」ほうが起伏に富んでおもしろいけれど、それは大人になってからの話。

『少年たち』

映画『少年たち』観た。美しかった。胸を衝かれた。

物語の理想としては、環境から切り離された個性によってドラマが展開するべきだろうとおもうけれども、少年という概念は飢餓感や孤独を呼び寄せずにはおかないわけで、映画らしくいくらか話の筋をみせるために事件がさまざま回想される。

それらも要約というよりは断面だったから、映画でありつつも舞台。とりどりの世界を詰め合わせたレビューの匂いに心がやわらかくなる。

序盤で「なんでみんな喧嘩ばかりするんだろう」と独白あって、もう、ここで泣く。ジャニーさんの世界観でしょう。それをジャニーズJr.全員共有できている。あたえられた歌や踊りに疑いをもたない。信じる。『ジャニーズJr.チャンネル』でSixTONESのグループ名改名ドッキリというのがあったけど、そこで松村北斗が「俺たぶん、一年半ガマンすれば慣れると思う」とすぐに受け容れたのが凄かった、あの感じ。

映画に合わせた回では京本大我が「ジャニーさんの想い」「タイミング」と言っていた。パンフレットの座談会もそう。

森本 毎回「少年たち」で初心に返ってる。

高地 そういう感じある。「少年たち」ってジャニーズの舞台では珍しく、自分たちでやりたいことを提案できる作品なんだよね。そういう意味での大きさは譲れないものがある。

田中 社長から「ユーたち、何を考えているの? 考えているなら教えてよ」って聞かれて、それがそのまま形になったりとかね。

ジェシー ジャニーズの舞台の中でいちばんリアルじゃないかな。ジャニーさんの経験もいっぱい入っているわけだから。

ジェシーの「仲間だろ」という科白もとても好かった。あれは唐突どころか再確認なのであり、エピソードやドラマの不足をみるのは恵まれたひとたちだ。

おなじ部屋になったら、仲間である。愛に飢えてシンプルな人生をもとめる感覚──いまだったらサイコパスと呼ばれそうな──、一宿一飯の恩義と一期一会の冷酷さを同居させた物語不要の少年性がリアルだった。これを理解できているジャニーズの子たちはやっぱりどこかアウトサイダーなんだろうともおもった。

 

京本大我、きれいだった。

西畑大吾にはテレビや雑誌とちがった男っぽさがあった。

ダンスパートにでてくる長尾謙杜を必死に見た。

渡辺翔太良かった。映画パンフ、プログラムでこの作品を「“歴史あるもの”と“初めてのもの”が一つになった」とコメントしていたのもみごと。

 

キャリアがあれば役と台詞を、そうでないJr.は顔見世として麗しいところという役割分担も成功していた。ばめんをスイッチさせる登場人物の一人、クロ(中村嶺亜)がでてきていきなりしぬのも印象的だったけれど、さいごのさいごでHiHi Jets美 少年らが登場し踊るのは夢のようだったから、観ていて大泣き。正直キラキラのかれらにもドラマを演ってもらいたかったし、もっと言えばいまより幼かったころの北山君や藤ヶ谷君がキャスティングされた世界を空想したりもした。そういう、ありもしないものを欲望させる豊穣さが映画『少年たち』にはあった。

〈表面だけ演じることで わかってないふりをしていたかった〉

ボーイミーツマリア (Canna Comics)

PEYO『ボーイミーツマリア』、BL、すごかった。

生きのびるために「薄っぺら」な反応をしていくことをえらんだ大河(たいが)が、女装する演劇部員・優(ゆう)と出逢う。それこそ「薄っぺら」に、どこまでもつづけられそうなラブコメとして展開するのかとおもいきや、話がどんどん、どんどん重くなる。どうあっても関係がおおきくうごいて、どこかに、着地しなくてはならない──『ボーイミーツマリア』は悲劇としての貌をみせる。

おんなの子の恰好をした優に、大河は惚れた。「肌も白いし まつ毛も長いし その金髪も ふわふわしてて 似合ってるし

なんたって オレが昔見てた特撮の ヒロインに そっくりなんだ」

と、口きく機会にいきなりイメージを押しつける。このマンガは、きちんとドラマだから、その場で優の感情が返ってくる。

男だって 言ってんだろ

それとも実際に 証拠でも見ないとわからないのか

お前 あ?

いいよ 見せてやるよ

 

見ろ

ほら 正真正銘 男だろ?

「キレる」というコトバが内包する理不尽さは、ここにはない。真っ当な怒り。序盤で、すべてが明るみにでたような。そのはずなのに、なにも見えない。サスペンスがはじまる。

怒りを露わにしたあとに、泣きながら帰る優。大河が激しく後悔するのも佳い。

優のフルネームは有馬優。スカート、ワンピースのときは有馬を逆さにしてマリア。名のつけかたも巧み。

衝突しながら互いに信頼を深めていく。優が「僕のことを『女として』好きなのか『男として』好きなのか どっちなんだっつの」とさりげなく聞く。大河は答えられない、わからない。恋愛感情の醍醐味は、これだろう。性愛のシミュレーションを必要としない。そのときどうなるか。プランなんかアテにならない。この濃密な無垢。

 

話の運びかたにもおどろくのだ。「気絶」や、忘れものを取りにかえる「無駄な移動」を内省的対話に充(あ)てている。

役割を強いられることなく生きていけるといいとおもう。しかし社会には掟がある。それがときどき目についてしまう。

〈ぼくは 女でもなければ 男でもなく 女でもなく 男でもなく、……〉

 

かれらが幸福になることを願いつつ読む。

「うしろ弁天まえ不動」

『吉祥寺寄席』行く。第55回。

登場したのは春風亭一猿、春風亭三朝、ゲストに栗林祐輔(能管。笛方森田流)。仲入あって八光亭春輔

 

春風亭一猿、いまは前座だが5月に二ツ目昇進の由。演ったのは「半分垢」。

この噺はおもしろい。娯楽のすくない時代というか、相撲が非常な人気で、その身体も凡人とはかけ離れたもの。それを町内で、間近に見るおどろき。

そういう浮かれが、ご近所にも関取のおカミさんにもある。市井に充ちる熱っぽさ。そんな想像を働かせて演ると、春風亭一猿はもっとおもしろくなりそうだ。

 

春風亭三朝浮世床」。これは髪結床の待合で、文字の読めないおとこが『太閤記』の「姉川の合戦」を難渋しながら音読するという噺。文字が読めないというのにも引っ掛かるが、いまとなっては「姉川の合戦」のわからなさにも引っ掛かる。ずいぶんとおもしろさの軽減した噺の一つだろう。

 

能楽から栗林祐輔。

能管は、神事に用いられる石笛(いわぶえ)の流れを汲み、高い音、割れた音。さまざまノイズを許容する。

栗林さんはマニアックなところに、若々しさ。国立能楽堂の入場無料企画展の話を、嬉嬉と。いま、国立能楽堂開場35周年記念として、かなりのものがでているそうな。“雷の鼓胴”それに付随して織田信長の書状。

百年経って良い音がでるようになる和楽器の世界。江戸、安土桃山といった時代物が平成の世に現役である。

披露されたのは能の曲、狂言の曲、それから楽器の名が題になっている「羯鼓(かっこ)」。

 

八光亭春輔「山崎屋」。これは「よかちょろ」として知られていることのほうが多いか。

日本橋横山町山崎屋の若旦那・徳次郎と、番頭の久兵衛久兵衛は「石橋のうえで転んだら石橋のほうが『痛い!』と言う」ほど堅物だと自称するが、店のカネで女を囲っていることを徳次郎は知っている。だから吉原で遊ぶ費用を工面してくれと。

久兵衛久兵衛で、徳次郎が何という名の花魁にいれあげているか、調べがついていたから、遊びを止めて夫婦になるようもちかける……。

佳い話である。男女が結ばれるまではほとんどえがかれず、それでいて双方の愛情がよくわかる。

八光亭春輔は、師匠・林家彦六譲りのゆっくり、はっきりした喋り。そこにもきちんと情感はあって、くっきりと語られているからこそ、噺の省略も光るのだ。

もっと聴きたい落語家の一人。なかなか日程が合わぬけれども。

〈地盤が凍ったりとけたりをくり返すうちに、建物は土台からねじれ、ひん曲がっていくのです〉

マイナス50℃の世界 (角川ソフィア文庫)

Amazonプライム・ビデオ『MAGI 天正遣欧少年使節』の大作志向は、かつての日本映画に似ていた。それでずっと「海が、凍る……」と呟いて暮らす。これは『おろしや国酔夢譚』の台詞。

米原万里『マイナス50℃の世界』は、テレビ番組の企画で大黒屋光太夫の足跡を辿った椎名誠に同行したことで生まれた。

「お元気ですか。こちらはもうすっかり暖かくなりました。外の気温はマイナス二一度。暑いほどです」

これはヤクート自治共和国(現サハ共和国)に住むテレビ局員のオフロブコフさんからわたしにとどいた一九八五年四月二日付の手紙です。

マイナス二一度が暑い、なんて日本では考えられないことですね。でも十二月の平均気温がマイナス五〇度にもなるヤクートでは、本当にそう感じられるのです。

ヤクートの東部、オイミャコン地区では、マイナス七一度を記録したことがあります。北極より寒いのです。

小学生に向けた文章で、異文化とやさしく触れ合えるのが好い。〈サハはロシアの共和国の中でも最大で、日本の面積の約八倍もあります。しかし、人口は九十五万人あまりしかありません〉

実は二百年も前に、大黒屋光太夫という商人と数人の日本人船乗りたちが、この土地をおとずれているのです。

大黒屋光太夫の生涯がさらりと挿入される。そして〈光太夫たちの漂流大冒険については、『光太夫オロシャばなし』(来栖良夫・著、新日本出版社)という、とてもおもしろい本が出ています。さらにくわしく知りたい人は『おろしや国酔夢譚』(井上靖・著、文春文庫)を読んでみることをおすすめします〉ときれいな紹介して、ヤクートの話にもどる。さりげない。けれどもこれを手がかりに、関わりのある本へと踏みこんで、その愉しさをおぼえるひともいるだろう。そういう可能性のある書きかたをする本の一つ。

 

第4章の章題「さいはてのさらにはて」という訳(やく)が白眉。

〈ビニール、プラスチック、ナイロンなどの石油製品は、マイナス四〇度以下の世界では通用しないのです。当然のことながら、現地の人々は、こういった人工繊維のものは一切着ません〉

ヤクート語が、モンゴル系の言語と親戚関係にないこと。南方起源。しかも「ヤクート語には罵りことばや悪たれがほとんど無いんです」。

おそらく、かつて楽園のような南国に住んでいたヤクート族は、周囲の攻撃的で戦闘的な民族に追われて北上し、ついにこの極寒の地にたどり着いて安住したのでしょう。隣り合わせのブリヤート族に「ヤクート」すなわち「さいはてのさらにはて」と呼ばれるこの永久凍土からは、もう誰も追いたてるものはいなかったのでしょう。

ぜんぶわすれたくなること

さよなら、おとこのこ (2) (ビーボーイコミックスデラックス)

志村貴子『さよなら、おとこのこ』第2巻。

ぜんぶわすれたくなるとき、たぶんある。すべての関係を絶ちたいとか。その表れの一つとして、子どもになりたいとねがうというか、子どもになってしまう。

心の声というやつもでてくる。ナチュラルな絵だから舞台設定同様の小劇場の舞台の如き感覚を味わいながら読む。

オレの話さ

たくさん話すから

裕太がお芝居にしてくれる?

子どもになることで、かつてのじぶんに似たタイプのにんげんをながめることができるようになる。その長所、短所。ときにえぐられる。

裕太は、前途ある脚本家の卵。その兄・勇紀とつきあっているのがある日子どもになってしまったかなで。

かなでは、べつのおとこに片想いしていた。かなでも勇紀も若いから、いろんなことに引きずられて大泣きしたりもする。

〈近頃 思い出すのは夢の入り口にも立っていなかった 子供の頃のことばかり…〉

生首。森がうごくこと

マクベス (新潮文庫)

ナショナル・シアター・ライブ『マクベス』観る。冒頭に制作者の解説映像あり。

もともとの舞台は11世紀。「超自然的な力を信じた時代」である。設定はそこから近未来へと変わる。

現代のイギリスがかかえる問題をかんがえると欧州連合、多民族、他宗教、経済格差、テロリズムなど、ようするに『マクベス』的な転覆が夢みられもするし、だれかの都合でそれが起こるかもしれぬという不吉さを肌にかんじもするだろう。

安定した日常というものがない。それが内乱つづく荒廃としてえがかれる。冒頭インタビューの「うわべだけの民主主義」ということばが沁みた。それは状況次第でかんたんにうしなわれると。

独裁、恐怖政治はいまもすぐそばにある。そんな絶望的なところから今回の『マクベス』ははじまる。

だから、インタビューで「別々の荒野」と言われもしたのだ。安泰のスコットランド王ダンカン治世下と闇夜の魔女たちといったコントラストは、ない。

今回の舞台は『マクベス』で先ず想起されるだろう「きれいはきたない、きたないはきれい」の台詞をカット。シェイクスピアの原作はかなり刈りこまれていた。それがリアルだとおもった。

ことばの説得力は失効しつつあり、映像の力がどんどんつよくなる。三人の魔女の演出に顕著だったけれど、ハリウッド映画、それもディズニーの影響。もっとおもえば量産されるテレビサイズのほうかもしれない。世界は狭い。なのにたくさんのかんがえかたが溢れかえっている。

そのなかで、おおきな共同体をつくろうとするか、核家族的に先鋭化していくのか──マクベス夫婦は後者だ。ダンカン王(スティーヴン・ボクサー)が気さくで隙だらけなのと比べると、マクベス(ローリー・キニア)もその夫人(アン=マリー・ダフ)も陰(いん)に籠(こ)もって物凄い。

かれらには子どももいない。ひとのことは信じられないが、システムとしての権威には一目置く。幻視にすがりつくわけである。

自らを鼓舞するほどに狂気に近づいていく。

ローリー・キニアが上手かった。主役を張れるにんげんとして、くっきりしていた。