大漁、異漁。耀

タイトルは タトゥーのようなもの

あくまで身体表現としての、発話。

『WOW! いきなり本読み!』#1 。

脚本・演出は岩井秀人。今回の本である「ごっちん」にぶっつけで挑んだのは水川あさみ上白石萌歌皆川猿時

台本を与えられ、指示を受け、意図を汲み、演じる。一人で何役も掛け持ちしたり、ばめんが変わればちがう役を担当するなど、フツウの本読みよりもハードである。息の抜けない身体表現。そこに議論はない。演じることだけがある。

読解とか理論とか、台本の外でああだこうだしゃべらないのが好い。岩井秀人はダンディだとおもう。

 

そしてすこしおかしな本が多い。「ごっちん」もまた。予想していないほうに話が転がる。いいかげんといえばいいかげん。けれど議論や芸術よりもずっとおもしろい。

ごっちんは身長2mの、筋肉質で黒光りする肌をもつ小学3年生の女の子。悪ノリのような設定だが、そこにリアルな感情を乗せていく。男子への恋心や、女の子同士の友情。

水川あさみ皆川猿時が怪演しても、生まれたリアルは壊れない。ヒトの声や肉体を用いることのコストと意味。観客は共感、感情移入しそうになる。すると見透かしたみたいにいいかげんな展開をして、揺さぶってくる。

俳優たちは演じながらよく笑う。かたちにならないものが躍っているから。

「いきなり本読み!」を観て得たものの一つは、俳優が皆笑っているということである。もちろんほんとうの稽古で笑ってばかりはいられないだろうけれども、表現に、死神の如き苦悩を寄り添わせる必要はない。

6と5

『文豪少年! 〜ジャニーズJr. で名作を読み解いた〜』。

好きだった子をさらに愛でるようになったり、ここきっかけの出会いがあったり。

第6話の深田竜生に胸射抜かれた。それはさいしょの喫茶店から。

 

「ホントなんもないっすね」

「どうぞ、お好きな席へ」

「あのう。……おれ毎日退屈で。なんかこう……激しいのあります?」

よく通る、ぶっきらぼうな声。

まなざしや口の閉じかたに情感がある。言い淀んだり、噛んだりするその間もリアル。『ドラゴン桜』に出演中とか。追っていない。こことの異同を確かめなければ。

第6話「稲荷坂の秘密」。「『秘密』かぁ……。いいすね」

女装の話。

といってかんたんにキャラ変するわけではない。いつまでも、ためらいののこるのが好かった。それがラストに効いてくる。「まだ、足りない……」

中盤、どもる。ういういしさに痺れた。

「今日も女装してくるのかと思った」

「そのほうが よ、よかったですか?」

演出、松井夢荘。舞台は雑司が谷鬼子母神堂。

 

第5話「二百十日の二百十段」。安嶋秀生、好きなのだ。檜山光成、ふせえりと。もちろんイッセー尾形も。

男子高生二人のしゃべり。だらだらしたものになりがちなところを、軽快に。落語のような、タランティーノのような。

長回し。互いの呼吸や、台詞覚えを探りつつ進んでいるふうで快い。リードするのは檜山光成。安嶋秀生はふわふわしている。

「まさかァおれたちの煮玉子まで『闇の力』がね」

「大袈裟だって」

陰謀論への傾倒が男子高生ぽくてかわいい。相方の安嶋秀生は口のなかにあんぱんがのこっていつまでもモグモグ。

 

「根拠ないのがいいんだよ。ヘタにちょっと勉強できたり、スポーツできたりして、目立って過大評価されるといつか必ず『結果』ていう化け物に追い込まれるんだ」

 

二百十日の二百十段」は何回リハーサルしたのだろう。

階段部の帰り道。あふれだす安嶋秀生の優しさが色っぽかった。

嘘と、ささやかな多声。

「先生ワタシね、ワタシねじぶんが今しゃべったこと、じぶんが今しゃべったこと、次の瞬間忘れてるんです」

「困りましたねそれは」

「何が?」

笑福亭松枝「高津の富」。『新春揃踏 角座演芸づくしの会』(心斎橋角座 2021.1.1)より。

ドクターシリーズと称してお医者さんと患者の小話を立て続けにしゃべる。軽快で楽しい。面貌も口吻も、上方らしくてホッとできる。

演った「高津の富」はカネもないのに景気のいいホラ話する男とその周辺。もちろん男は富くじに当たってしまう。そしてすぐにサゲ。

富くじを買った連中の、それぞれの皮算用

さまざまな声がある。匿名ながらも、こだわりがある。

「茶碗蒸し好きでんねん。茶碗蒸しあったら他なんにもいりまへん。茶碗蒸しでちびちびちびちび飲んでいるうちにええ具合に酔いが回る。『おいぼちぼち寝よか』うーん(ト幸せそうな声音)」

あちらこちら細部に幸せ。それが夢物語や妄想であってもくすぐったい。

他人の夢物語や妄想があるから、ほんとうに富くじを当ててしまう男のリアリティが生まれる。

「どんな大金よりも、私はお母さんの写真が欲しい」  ラフカディオ・ハーン

怪談四代記 八雲のいたずら (講談社文庫)

〈大学で民俗学を専攻した理由は、旅を続けたいからだった。放浪癖があった私は、小学校高学年の頃にはひとりで時刻表を片手に週末ごとに関東地方の史蹟や伝統的な町並みを訪ね、あるいは山歩きを楽しんだりして至福の時を見出していた。中学生時代には山梨県や長野県、東北各地にも足をのばした。(……)中学生が一人旅をするのは、傍から見ると不思議な光景なのだろうが、自分にとっては旅は食欲に匹敵する生理的欲求に近いものだった〉

小泉凡『怪談四代記 八雲のいたずら』。

思えば、ハーンも旅の人生だった。1850年ギリシャで生まれ、アイルランドとイギリス、フランスで教育を受け、19歳の時に単身ニューヨークへ渡った。シンシナティニューオーリンズで約13年をジャーナリストとして過ごした後、カリブ海のフランス領マルティニーク島でも2年間生活した。ニューヨークに戻り、今度は大陸横断鉄道でカナダのバンクーバーへ、そして太平洋を渡って横浜に来た。39歳の時だった。アメリカの出版社との契約を解消して、島根県松江で英語教師となり、さらに熊本・神戸・東京へと移り住み、54歳で生涯を終えた。私と違うのは、旅といっても片道切符の旅で、二度と後戻りをしなかったことだ。人生そのものが一筆書きの旅だった。

ハーンは「幽霊」というエッセーで、「生まれ故郷から漂泊の旅に出ることのない人は、一生おそらくゴーストがどういうものか知らずに過ごすかもしれない。しかし漂泊の旅は人は十分それを知り尽くしている」と語っている。漂泊の衝動こそ「ゴースト」を導くと考えていた。曾祖父はゴーストに出会うために旅を続けたのかもしれない。

アイルランドでハーンは父母の愛情を受けられないままに孤独な日々を過ごした後、19歳の時に親戚が投資で失敗したことから一文無しになって渡米した。

ラフカディオ・ハーン小泉八雲)の生い立ちに孤独なものがある。そのためにあちこちの土地でマジカルなもの、マジカルな描写に耐えるものに惹かれたのだとおもうと愛しい。小泉八雲といえば『怪談』と、一行知識で終わらせていた。たとえばハーンとマルティニーク

〈ハーンも聞き書きしたレシピ集をだすほどクレオール料理には関心があった。街を彩る、オレンジとレモン色の陽光、ジャズ胎動期のクレオール音楽、幽霊のように地面から這い上がる神秘的ともいえる異常な湿気、奴隷たちの怨念譚を伝える幽霊屋敷、こういったことをひっくるめた「熱帯の入口」のクレオールな町に魅了されていたのだった〉

 

〈怪談には生まれやすい場所というのがある〉──カリブ海マルティニークもそうだろうし、島根県の松江ならば「松江城下とその外側が接する周縁部に怪談が集中している」。階級差。生活圏の違い。

だから新宿、板橋といった〈江戸の出入り口〉にも怪談が生まれた。

 

ハーンの市谷富久町時代。自証院円融寺と地続きのところに住んでいた。「昼なお暗い境内には、松、杉、欅、樫、椎、檜などの老木が生え、その根方には熊笹、いばら、やぶからし、おんばこ、みずひきそうなど各種の野草が生い茂り、雪の降る日には野兎が飛び出したという」と小泉凡は書いている。

ここで語られる「瘤寺の鴉の話」や、ハーンの息子・一雄が「如意輪観音の呪い」に苦しめられた中延の家の話は印象深い。

表紙はチャウヌ

ニューズウィーク日本版 5/4・11号 特集 韓国ドラマ&映画50[雑誌]

ニューズウィーク日本版』2021.5.4/11、「韓国ドラマ&映画50」。

これから公開されるホン・サンス監督『逃げた女』、イ・ジョンピル監督『サムジンカンパニー1995』が待ち遠しくなる。

「私のとっておき映画5本」。はるな愛、クォン・ヨンソク(権容奭)、カン・ハンナのおすすめもよかったが、ハリー杉山が充実していた。

『タクシー運転手 約束は海を越えて』に触れて「人種の壁を越えた友情は本当にあるのか、ということも考えさせられます。そして、『デモ』についても。多くの日本人は、デモというとちょっと『引く』かもしれません。しかし日本の外に出れば、それは自分の思いを表現するごく普通の手段です。ご飯を食べたり、人を愛したりするのと同じ生活の一部で、デモ=反政府、デモ=暴力と考えるのはナンセンスです」

私の頭の中の消しゴム』では自身の家族のことも語る。

十朱大吾 斧田駿 中村雪

め組の大吾 救国のオレンジ(1) (月刊少年マガジンコミックス)

曽田正人 冨山玖呂『め組の大吾 救国のオレンジ』第1巻。飛び抜けた主人公に、助演の生ま生ましい感情。読んで良かった。

“狭き門”をくぐるにはグレーやブラック、あるいはもっと不可解な色を経ることがあるかもしれない。そのときのヤバさというかアツさ。

「現場(げんじょう)で 救助に来た救助隊を要救助者が見る その時に

『最高の救助隊が来てくれた』と思われたいよな!?」

「ヨシッ」

「『研修のユルくなった世代だ』なんて思われたくねーよな!?」

「ヨシッ」

「じゃあ お前等『山上助教の救助研修で良かった』って思ってるよな!?」

「ヨシッ」

「本心かァ!?」

「ヨシッ」

 

追い込まれ、それに応える肉体の若さ。無謀過ぎたときには「座学からやり直せ!!」と怒鳴られもする。心身からあまりに離れたケレンばかりでは虚構にも生活にも飽いてしまうので、この行きつ戻りつする熱が嬉しい。

さいしょの現場から、恐い。

言葉遊びする生きものたちの可愛さ

不思議の国のアリス (新潮文庫)

矢川澄子訳、金子國義絵。ルイス・キャロル不思議の国のアリス』。

 

さいしょに夢中になったのは河出文庫高橋康也高橋迪訳)で。ジョン・テニエルによる挿画、人間が皆グロテスクに描かれていたのも好かった。

そこからさまざまな版や研究本へと手が伸びた。それらは二次創作といっていいのだろう。魅力の大半は人語をあやつる動物と、その内容の奇天烈さにあったとおもう。

 

アリスに際立った特徴はなくて、矢川澄子による「兎穴と少女」(あとがきのようなものだ)から引けば〈良識のかたまりみたいな少女〉である。それが異界で飲み食いすることによって〈いままで観客もしくは通行人として、受身に味わってきたにすぎないこのワンダーランドのwonder を、アリスはここではじめてわが身の内にもとりいれた〉。

いわばこの国のものとはっきり血をまじえたのであって、よそ者でなくなるための、これも通過儀礼のだいじな一場面とみてよいでしょう。

 

(……)

 

結論からいってしまいましょう。《兎穴》といい、《通過儀礼》というとき、筆者の心にあるものは終始、《少女の孤独》ということなのです。

にぎやかな世界のなかで読者や観客に愛玩されるアリスというのは、矢川澄子の感覚とちがいそうだ。

矢川澄子の訳は、おはなしを聞かせる調子。

〈ドアをあけると、あちら側はせいぜいネズミ穴ほどのせまい通路になっていてね。ひざまずいてぐっとのぞきこんでみると、そのさきは、見たこともないすてきなお庭なんだ〉

読みはじめは、語尾の「ね。」が少々気に掛かる。それが終盤、グリフォンとウミガメモドキの辺りから「〜のさ。」「〜よ。」と変化に富んでくる印象。リズムも良くなる。あるいはこちらが勢いづいてきたのだろうか。

アリスの孤独と比べると、登場人物たちはあまりにバディだ。グリフォンとウミガメモドキ。公爵夫人と料理女。ウカレウサギと帽子屋。女王さまと王さまなど。

 

アリスが孤独な夢から解放されるのは、さいご。姉さんの膝を枕にねむっていた。起きた。夢の話をした。

アリスの現実が孤独かそうでないかはわからない。姉さんの視点で物語は終わるから。姉さんは大人になったアリスを想像する。長じても優しいままのアリスをおもいえがく。このくだりが感動的でびっくりしてしまった。

幼い者の物語や未来を信じてやることが《姉》の務めなのかもしれない。